福岡歴史なび

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 歴史の教科書に必ず登場する『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』に描かれた元寇防塁が福岡市に現存します。それが生の松原の元寇防塁です。元寇の船が大挙して押し寄せた博多湾と元寇防塁を巡るまち歩きをご紹介します。『蒙古襲来絵詞』の絵図は、現地にもサインとして展示されています。絵図と現地を是非見比べてください。美しい博多湾の風景を眺めるだけでも新たな発見があるかもしれません。

[1] 壱岐神社
・壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)を祀る神社です。
・『日本書紀』によれば、壱岐直真根子は、反乱の罪を着せられた武内宿称(大和朝廷の初期に活躍したという伝承上の人物で大臣等をつとめる)を助けるため、身代わりとなって亡くなった人物と伝えられています。やがて無実であることがわかりましたが、自分の命を犠牲にしてまで武内宿称に尽くしたことから、ここに祭神としてまつられたと言われています。

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[2] 逆松の碑
・神功皇后が松を逆さに植えながら、『願いが叶うなら生きよ!』と唱え、その松が無事に生きたという伝説の木を示しています。その後松原へと種子を増やすことになり、そんなことから、松原の名は生の松原となったと伝えられています。

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[3] 元寇防塁(生の松原地区)
・史料によると、この付近の防塁は、生の松原が肥後国、姪浜が肥前国と伝えられています。
・積み上げられた石の種類は、西側が長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)、東側が小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれていました。この石材の違いは両国の分担地区を示す可能性があると考えられています。

※元寇防塁とは、文永11 年(l274)の蒙古襲来を受けて、鎌倉幕府の命により、建治2 年(1276)博多湾の海岸線約20 kmに築かれた石築地(いしついじ)です。「元寇防塁」と呼ばれるようになったのは、明治後期から昭和前期にかけての日本の病理学者であり、考古学者の中山平次郎による命名からと言われています。

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[4] 元寇防塁(向浜地区)
・向浜地区は、大正10 年(1921)に内務省の考査官が現地視察し、石塁を確認したとされていますが、詳細は不明です。その後昭和30 年(1955)の台風によって姪浜一帯の海浜が浸食された際に石塁が崩壊したという記録が残っています。

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[5] 小戸大明神宮
・伝説では伊邪那岐(いざなぎ)の神の「みそぎ祓(ばらい)」を行ったところで、天照大神、志賀三神、住吉三神が出現したという由緒の地とされています。
・享保10 年(1725)6 代藩主黒田継高(つぎたか)が社殿を建立し、伊勢神宮の古例にならい、20 年ごとに新旧両殿交互に改築遷座が行われていました。
・また、神功皇后の休憩安産石の由緒により、安産祈願またけいれんの病に霊験があるとされています。また附近に皇后の朝鮮出兵にちなむ「お膳立て」の磯があり、海中に配膳の形をした岩盤24 個があることも特徴です。