国史跡 福岡城跡・鴻臚館跡

福岡城

福岡城
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、黒田長政が筑前国50万余石(後に52万余石)を徳川氏から与えられ、福岡藩初代藩主となりました。長政は初め名島城に入りますが、翌年に那珂郡警固村福崎に新城を築くこととし、長政自らが設計し、野口一成を普請奉行に命じました。城名は黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡に由来します。  城内は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、47の櫓が設置されました。城内の建物や石垣は、江戸期を通じて幾分改変はあったもの、築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようです。 明治維新後、城内は県庁に使用され、その後陸軍が駐屯し、多聞櫓などの一部を除き、大半の建物が解体や払い下げにより失われましたが、福岡城は近世福岡の発展の契機として大きな役割を果たし、現在の福岡の都市整備の礎であることは変わりありません。

鴻臚館

鴻臚館
鴻臚館は古代(飛鳥・奈良、平安時代)の外交や海外交易に関わる公的な施設で、中国・唐や朝鮮・新羅の外交使節や商人をもてなすとともに、日本の外交使節である遣唐使や遣新羅使の送迎にも使用されました。同様の施設は平安京(京都)、難波(大阪)にも設けられましたが、その遺跡が確認されたのは、筑紫の鴻臚館だけです。  昭和62(1987)年、平和台野球場外野席の発掘調査で鴻臚館の遺構が発見され、これまでの調査により堀で南北に分けられた二つの館が造られたことや様々な陶磁器類など出土することが分かりました。現在の中国の河北省、浙江省、湖南省などで生産された大量の陶磁器や朝鮮の新羅・高麗産の陶器、さらには西アジアのイスラム系陶器やペルシャ系ガラス器などの出土品は、交易拠点としての鴻臚館跡の性格を現しており、国際港湾都市福岡(博多)の原点がここにあると実感されます。