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7.元寇防塁と海岸部の遺跡

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西区の海岸部は姪浜、小戸、生ノ松原、長垂海岸、今宿松原へと続き、瑞梅寺川河口の今山下に至る。さらに河口を渡り今津、長浜、小田浜、唐泊と 続き、博多湾の西側を限る。海岸部は岩山と海岸砂州で形成され、前者には長垂海岸のペグマタイト岩脈、玄武岩製石斧を製作した今山遺跡、後者には貝塚や元 冦防塁などがあり、かって港であった今津や唐泊には往時の繁栄を物語る神社仏閣がある。

また、近世以前は大きな入江であった瑞梅寺川北岸の 元岡から桑原一帯には、縄文時代の貝塚、さらにはその奥の山地頂部には中世の山城がある。この周遊コースはJR下山門駅を起点に唐泊までの海岸部を通る コースと、今山遺跡から分岐して元岡方面に向かう内陸部のコースを設定した。前者は今宿から西浦まで自転車道が整備されており、健脚の方は自転車を利用 し、西浦から志摩町の桜井神社経由で元岡方面の史跡見学もできる。

[1] 誓願寺
 真言宗仁和寺派で、山号は登志山と号する。 怡土荘の仲原氏太娘の発願により、僧寛智が建立したものである。嘉応2年(1170)に阿弥陀像の造立、大般若経の書写、法華経持者千人を置くという三種の誓いをたて、承安元年(1171)から同5年の間に阿弥陀像の造立と建物の建立を行っている。 今津から糸島郡全域にかけて、平安時代末期には怡土庄が存在した地域である。怡...
[2] 勝福寺
 臨済宗大徳寺派の寺で、山号は龍起山。大覚禅師(蘭渓道隆)、鎌倉幕府5代執権北条時頼を壇越として、建長元年(1249)創建。延文5年(1360)には朝廷の勅願寺となり、これに関する文書が他の21点の中世文書とともに残る。  国重要文化財の「絹本着色大覚禅師像」は、縦112.8cm、横59.69cmの大きさで、曲彖(椅子)に座る禅師が描かれている。大覚禅師(1213~1278)は...
[3] 元寇防塁(今津地区)
 文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。  今津地区の元寇防塁は、西の柑子岳山麓から東の毘沙門山山麓までの海岸砂丘上に、約3kmにわたって続く。大正2年にこのうちの2ヶ所が、昭和43年に本格的な発掘調査が行われた...
[4] 三所神社
 祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。創立は神亀5年(728)と伝える。江戸時代、筑前五ヶ浦廻船の基地であった宮浦の氏神である。 この神社に掲げられる板絵着色武者絵馬は、宮浦の船頭4人が享和3年(1803)に奉納したもので、縦80.0cm、横121.5cm、加藤清正の虎退治を画題とする。 作者は...
[5] 東林寺・万葉歌碑(韓亭)
 今津湾を西に回りこんだ糸島半島の東岸に、唐泊港がある。天然の良港で、古くから韓泊、能許の亭と呼ばれ知られていた。  この港を見下ろす山腹に、臨済宗妙心派の唐泊山東林寺がある。文治三年(1187)宋から帰国した栄西禅師によって開かれたとされ、宋の東林寺に立地が似ているところから寺名としたと伝えられている。  境内の一角、博多湾・今津湾を望んで、万...
[6] 柑子岳城跡
 博多湾を望む標高254mの柑子岳に築かれた戦国時代の山城。築城時期は明らかではないが、天文元年(1532)柑子岳の城を大内氏が乗っ取り、城普請を行ったという。同7年大友氏がこれを攻めて、志摩郡一帯を領地にした。以後、柑子岳城は志摩郡における大友氏の拠点となる。 永禄年間(1558~1570)には大友宗麟が改築し、一族の臼杵新助親連を配して城を守らせた。永禄年...
[7] 元岡瓜尾貝塚
 福岡市の西部、旧今津湾の西北部にあたる糸島半島の山麓部に位置する縄文時代後期の貝塚である。貝塚東側には溜池が築かれ、池畔に貝層断面が現われている。  貝層は丘陵の上部で厚さ20cmであるが斜面にそって順次厚くなり1mを越える部分もある。  貝層を構成する貝種は現在でも今津湾に棲息するものが多く、マガキ、オキシジミ、ウミニナ、ハイガイ、ヘナタリな...
[8] 八坂神社
 神社の由緒は不詳。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)など9神。村内数神社の祭神を大正時代に村社の八坂神社に合祀したものである。  7月中旬の土日に行われる祇園祭で獅子舞、祇園ばやしが上演される。獅子舞は、江戸時代に伝えられたとの伝承を持つ。いったん途絶え、現在の獅子舞は明治30年に復活したものである。祇園ばやしは、明治初年頃の始まりとされ...