平成29(2017)年度の成果

平成29年度は木製品が5遺跡337点で、金属製品を中心とするその他の材質は21遺跡450点の保存処理をおこないました。以下、主要なものについて紹介します。

木製品

1 元岡・桑原遺跡群第42次調査出土資料

元岡・桑原遺跡群は、福岡市西部の糸島半島に所在する遺跡です。遺跡群全体の概要は昨年度のページを参照下さい。
今回も昨年度、一昨年度に引き続き第42次調査で出土した資料を紹介します。
元岡・桑原遺跡群の第42次調査は、遺跡群全体の南側、古今津湾(こいまづわん)と呼ばれる、かつては糸島半島の付け根に入り込んでいた海の奥の北側に位置します。
平成16年から約5年にわたって発掘調査が行われ、調査区の面積は、拡張された部分(52次調査)と合わせ約7,000㎡と、元岡・桑原遺跡群で行われた発掘調査の中でも広く、且つ、検出された弥生時代中期から古墳時代前期の流路から、土器を中心に多量の土器(コンテナケース8千箱分!)が出土し、その土器群の下からは様々な木製品が出土しました。

1-元岡42次現場
2-元岡42次現場
3-元岡42次遺物出土状況

写真1は火鑚臼という火起こし具。2は柄杓です。3は臼の形状ですが、内部が刳りぬかれておらず、製作途上品と考えられます。
4は台脚付の盤(ばん)盤。5は脚付の坏。
6から7は団扇形木製品と呼ばれており、正確な用途は不明ですが、6は大阪府鬼虎川遺跡、7は三重県六大A遺跡などで同様の出土例があり、儀器の一種と考えられています。
8は蓋状製品。自然木の枝分かれになった部分を利用しており、現状では2本の枝の分岐が確認できますが、同調査地点から出土した同製品や博多区板付遺跡などの類例をみると、3から4本に分岐した枝を傘の軸として仕上げたものと考えられます。こちらも正確な用途は不明ですが、現在は儀器の一種と考えられています。

4-元岡42木製品
5-元岡42木製品
6-元岡42木製品

2 今宿五郎江遺跡11次調査出土資料

今宿五郎江遺跡は西区今宿西・東に所在する遺跡です。平成14年度からの伊都土地区画整理事業に伴う調査の一つで、弥生時代後期には大規模な環濠集落が形成されました。遺跡からは朝鮮半島北部にあった楽浪郡の土器、朝鮮半島南部の瓦質土器をはじめ、山陰・瀬戸内・近畿・東海地域の土器などが出土するなど、海を介して他地域と活発に交流していたことがうかがえます。

1-今宿五郎江遺跡

本調査区では、弥生時代後期に造られた環濠の西側部分とみられる谷部を中心に多量の木製品が発見されました。これらの中には、鍬(写真1)や鍬の柄(2)、鋤(3)、斧の柄(4)といった農具のほか、ヤス(5)や網枠(6)などの漁労具、紡錘車(7・8)とよばれる車輪状の製糸具などが含まれており、当時の人々の多様な生活形態が分かります。

2-今宿五郎江遺跡
3-今宿五郎江遺物出土状況
4-今宿五郎江木製品

3 久保園遺跡出土4次調査出土の机

久保園遺跡は博多区東平尾に所在する、福岡空港東側の丘陵部とその麓の低地部にかけて広がる遺跡です。旧石器時代から人々が活動していたことが分かっています。弥生時代中期以降は竪穴式建物や掘立柱建物が多く建てられ、本格的な集落化が進みました。
写真の1・2はともに古墳時代中頃(5世紀頃)の組み合わせ式の脚付き机です。天板裏側をみると片側に長方形状の溝を切り、これに対応する先端部をもつ脚を組み合わせて使用しています。
これら机の用途については不明ですが、特に1の机の表面には不定方向の鋭利な切り傷が多数残っていることから、机の上で刃物を使用していた可能性があります。

1-久保園遺跡空撮
2-久保園遺跡出土状況
3-久保園机

金属製品

1 仲島遺跡出土の内行花文鏡

仲島遺跡は、福岡平野の東南に、福岡市と大野城市にまたがる形で広がっています。 これまで福岡市による発掘調査では、古代の権(おもり)や緑釉陶器椀片などが見つかっており、大野城市による調査では、弥生時代の貨布や鏡片、古代の墨書土器などが出土しています。これは、この遺跡が、雀居遺跡や板付遺跡といった弥生時代の拠点集落に近く、古代には官道にほど近い場所にあたることに関係するものと考えられます。そのような仲島遺跡5次調査では、完形品の内行花文鏡が出土しました。弥生時代後期(1から2世紀頃)のものと考えられます。この時期の福岡平野では貴重な例です。
この鏡は、取り上げ後、すぐに透過X線撮影を行い、文様と銘文の確認をしました。鏡背面にはコウモリ座と「長宜子孫」という子孫繁栄を願う吉祥句がみられます。
その後の保存処理の結果、鏡面はうっすらとモノが映るほど保存状態がよいことがわかりました(5)。しかし、目視観察で縁部分に細かなヒビが認められ、透過X線撮影では内部にスが入っていることから見た目ほど状態が良好ではないようです(4)。今後、劣化状態に注意して取り扱う必要があります。
鏡の材質を分析した結果、銅を主体として、スズと鉛が入る青銅製であることがあきらかとなりました。この結果は、過去に行われている同時代の青銅鏡の分析結果と類似するものです。
今後、この鏡をめぐる調査研究により鏡の来歴が明らかになることが期待されます。

1-仲島5次_発掘現場
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2-仲島5次_出土状況
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3-仲島遺跡5次内行花文鏡(保存処理前)
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4-仲島5次_透過X線
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5-仲島5次_鏡背面外観写真
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6-仲島5次_紐
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7-仲島5次-001-長
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8-仲島5次-005-長と宜の間
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2 雀居遺跡出土の青銅製工具・銅鏃

雀居遺跡は、現在の福岡空港内に広がる遺跡です。弥生時代の木製案(=机)をはじめとして、多量の木製品が出土していることで知られています。
平成28年に行われた第18次調査では、多量の木製品とともに、特殊な金属製品も出土しています。
今回ご紹介する銅鏃(7)と青銅製工具(3)は、資料の重要性もさることながら、その遺存状態が良好です。通常は錆に覆われてしまう表面の使用痕や加工痕が明瞭に観察できます。これらの青銅器は、金属が腐食する際の原因物質である酸素の供給が少ない粘土質の土に埋まっていたため、遺存状態が良好です。
福岡市内で同時期にあたる博多遺跡群17次調査出土銅鏃(8)と比較しても、その差は歴然としています。博多の場合は、砂質土のため雀居の土質と異なり、水分や酸素の行き来がしやすい環境のため腐食しやすい条件が整っています。したがって、出土する金属器はあまり遺存状態がよくない傾向にあります。
福岡市内で同時期にあたる博多遺跡群17次調査出土銅鏃(8)と比較しても、その差は歴然としています。博多の場合は、砂質土のため雀居遺跡18次調査出土青銅器は、埋蔵環境によって残り方が違うことがよくわかる好例です。

1-雀居18H29全景
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2-雀居18SC614出土銅鏃
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3-雀居18次青銅製工具
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4-雀居18次_工具状製品-3
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5-雀居18次_工具状製品-5
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6-雀居18次_工具状製品-6
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7-雀居18次銅鏃3
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8-博多17次_銅鏃3
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9-雀居18次_銅鏃-2
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3 中世博多と真鍮

博多遺跡群は、中世最大の貿易都市としての役割とともに技術流入の窓口として機能しました。これまでに、博多遺跡で非鉄金属の加工が確認されたものとして、金・銀・銅・真鍮があります。
この中でも銅と亜鉛の合金である真鍮は、その色調から金の代用品として重宝されていたようです。しかし原料となる亜鉛は、非常に蒸発しやすいことから、製造には特殊な技術が必要とされ、日本国内での製造がいつから始まるのか、注目を集めています。
博多では、最近の保存科学的調査で真鍮の加工具や製品が相次いで発見されており、真鍮製品の種類も増えてきました。
真鍮(銅―亜鉛合金)製と判明した製品は、鍵や錠前といった施錠具、耳かき、指輪、灰匙、繭型分銅、小柄、笄、メダイ(府内型)です。これらの製品において、真鍮は部分的な加飾で用いられるものよりも、地金として用いられる傾向があります。
今後も博多遺跡群において金属製品の綿密な調査を行うことで、真鍮の技術史の解明に向けた大きな手がかりとなることが期待されます。
写真1は今回保存処理を行った博多205次の資料です。2は博多56次出土の鍵で、紐を通す孔には真鍮の輝きが残っています(3・4)。他にも博多では真鍮を溶かした坩堝や、その蓋も出土しています。(写真6は85次調査出土、7は74次調査出土)

1-博多205次調査出土鍵2
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2-博多56次ー鍵-2
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3-真鍮の色調
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4-真鍮の色調
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5-真鍮事例
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6-HKT85次真鍮坩堝蓋3
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7-74次真鍮坩堝
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4 中世博多の刀装具

発掘調査で見つかる金属製品の多くは、腐食や錆の影響で本来の金属の色調や形状がわかりづらくなっています。これは、刀装具も例外ではありません。
博多遺跡群205次調査で出土した中世の刀装具である笄も、地金が銅のため銅の錆である緑青に覆われ、本来の色調が定かではありません。
しかし、中央が縦長に凹んでいる箇所には、銅と異なる材料で加飾されている可能性が考えられる他、もう1点の笄には孔が開いていることから別の部品を嵌めていたことがわかります。
この様に、見た目が大きく変わってしまった刀装具の本来の姿は、どのようなものだったのでしょうか。
本来の姿を推定する方法として、材質調査があります。出土金属製品の表面に存在する元素の種類から、金属の地金や加飾に用いられた金属元素の推定を行います。
これまでの調査で、博多遺跡群中近世遺構から出土した非鉄金属の三所物は、地金のバリエーションが5つ(①銅、②銅―鉛、③銅―鉛―スズ、④銅―鉛―スズ-ヒ素、⑤銅―亜鉛―鉛)確認されました。金属の色調とともに強度や加工性など、製品を製作する際に必要となる性質に応じて、多様化しているものと思われます。
また、加飾は①金の薄板?、②金(鍍金)、③真鍮(銅―鉛―亜鉛―スズ)、④銀の薄板の4種類が確認されています。
今回、展示している中央が縦長に凹んでいる笄は、中央に一部金色を呈する痕跡が確認でき、分析の結果、金アマルガムによる鍍金であることが明らかとなりました。中世博多における金属工芸の一面が、今後の調査により少しずつ明らかになるものと思われます。
写真1は今回保存処理を行った205次調査出土の笄(こうがい)です。笄は刀に付属する部品で、武士が髷(まげ)を整えたりするときに使います。
その他は過去に保存処理や調査を行った資料で、刀装具の類例です。2は小柄(こづか)と呼ばれる小刀で、柄の部分だけが残っています一番下の資料は円形の文様を真鍮で別作りにしています。3は目貫(めぬき)と縁金具、笄です。目貫は刀の目釘部分を隠す装飾です。鍍金(メッキ)によって金色に輝いています。

1-博多遺跡205次調査出土笄2
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2-刀装具事例(小柄)
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3-刀装具事例
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5 蒙古の落とし物?

箱崎遺跡77次調査からは、変わった形の火打ち金が見つかりました。火打ち金は石に擦り合わせて火を付けるための道具です。持ち手の部分の形が非常に特徴的です。
よく似た形状の資料が、長崎県松浦市の鷹島海底遺跡から発見されています。この遺跡は鎌倉時代の元寇で元(蒙古)軍の船が嵐によって沈んだとされる場所で、海底の調査で船や関連遺物が数多く発見されており、火打ち金も元軍のものと見られています。
箱崎は博多湾に面しており、元軍が襲来し、その後、元寇防塁も造られました。また筥崎宮は亀山上皇が外敵の退散を祈願し、その御宸筆が後に額として楼門に掲げられた神社です。そのような場所から出土した火打ち金は、時期的にも元寇と符合しており、「てつはう」(蒙古襲来絵詞に描かれた炸裂弾)に火を付けるのに使ったなどという妄想にもつながります。ただし、このような形状の火打ち金は民具などにも類例があり、出自の判断には今後、慎重な比較検討が必要となります。

1-箱崎火打ち金可視光-処理前
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2-箱崎火打ち金X線-階調反転
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3-箱崎火打ち金可視光
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