5. 城下町 福岡城~唐人町
唐人町では、唐津街道沿いに町屋が建ち並び、その周辺には足軽屋敷も置かれていました。福岡城で暮らした武士や町人の歴史・文化を垣間見る唐人町のまち歩きをご紹介します。旧唐津街道沿いは、現在、唐人町商店街です。商店街には、黒田藩御用達の和菓子屋さんも営業を続けています。美味しいものをつまみながら、江戸時代の庶民の暮らしに想いを馳せるまち歩きをお楽しみください。
時間…約3時間 距離…2.5km
[1] 旧唐津街道
旧唐津街道は豊前小倉から福岡城下をとおり肥前唐津にいたる街道でした。黒門が福岡城下の西の内郭と外郭を分けていました。黒門を抜けると外郭の唐人町に入り、そこから道はカギ形に折れ曲がり西新へと続いていました。
街道筋には福岡藩御用達菓子屋の「加美屋」、黒門飴の「板屋商店」など古くから続く商店があります。
約10分
[2] 八橋神社
18世紀後半の天明年間に伏見稲荷神社から勧請されたと伝えられます。もとは鳥飼八幡宮の境内にありましたが、明治44年に現在地に移りました。
約1分
[3] 西学問所跡
天明4(1784)年、東西二ヶ所に設けられた藩校のひとつ西学問所(甘棠館)の跡です。館長亀井南冥は徂徠学派の儒医で、生徒の自主、自発の学習を重んじました。
寛政10(1798)年に学舎が焼失し、廃校となりましが、広瀬淡窓をはじめ多くの人材を輩出しました。
約5分
[4] 善龍寺
浄土真宗の寺院です。黒田如水夫人照福院が火葬されたと伝えられる場所を、二代藩主黒田忠之が僧・浄徳に与え、善龍寺が開かれました。
山門の「瑞雲」の額は、亀井南冥の書といわれています。
約1分
[5] 成道寺
浄土宗の寺院です。武蔵国出身の僧・呑益によって元和2(1616)年に開かれ、寛永18(1641)年に現在の場所に移されました。
境内には、火事場の喧嘩の身代わりとなって処刑された森八兵衛を供養する「八兵衛地蔵」があります。今では消防の守り地蔵となり、8月23日の施餓鬼会には多くの消防団が纏(まとい)をもって参詣します。
約2分
[6] 吉祥寺
曹洞宗の寺院です。梶原十郎兵衛景尚(かじはらじゅうろうべいかげなお)が開きました。
門と本堂の屋根瓦が通りから目をひきます。
約1分
[7] 妙安寺
日蓮宗の寺院です。紺屋町香正寺の開祖日延が万治元(1658)年にこの寺を開きました。
日延は文禄・慶長の役のとき、4歳で姉とともに加藤清正にとらわれ、幼くして博多法性寺で僧になった人物です。
約8分
[8] 圓徳寺
浄土真宗の寺院です。17世紀半ばの正保年間に僧・敬三によって開かれました。はじめは湊町にありましたが、その後、現在地に移りました。
境内には、18世紀前半に起こった「享保の大飢饉」の餓死者を供養する「おにぎり地蔵」があります。赤い前掛けの下の小さな手は、大事そうに1個のおにぎりを握りしめています。
約8分
[9] 浄満寺
浄土真宗本願寺派の寺院です。寛永12(1635)年、那珂郡春吉村で僧・浄心によって開かれ、その後福岡大工町に移り、さらに寛文11(1671)年に現在の場所に移りました。
境内には、亀井南冥家の墓所があります。
約5分
[10] 金龍寺
曹洞宗の寺院です。永正5(1508)年に怡土郡高祖村で高祖城城主原田弘種が開きました。江戸時代はじめに荒戸山に移転しましたが、二代藩主黒田忠之のとき荒戸山に東照宮を建立することとなり、現在地に移されました。
境内に貝原益軒の墓、戦前の劇作家倉田百三仮住まい跡の碑などがあります。
約3分
[11] 鳥飼八幡宮
応神天皇・神功皇后・玉依姫を祀ります。
神社の創建年代はわかりませんが、神功皇后との関係を伝えています。もとの社地は現在より南にありましたが、慶長13(1608)年、初代藩主黒田長政によって現在地に移されました。
約3分
[12] 平野神社
幕末の勤王家、平野国臣を祀った神社です。国臣は神社近くの地行下町、現在の今川で生まれました。境内には「我胸の燃ゆる思いにくらぶれば烟は薄し桜島山」の歌碑が建っています。
約5分
[13] 簗橋碑
唐津街道が唐人町から地行に抜ける途中の菰川に架かっていた橋の跡です。簗(やな)とは魚をとる仕掛けのことで、江戸時代近くに簗所があったことから橋の名がついたとみられます。
約3分
[14] 黒門水導観音
福岡藩初代藩主・黒田長政が福岡城築城の際、濠を浚渫していた時に出てきた霊仏と伝えられています。清水の湧く井戸をお告げになったことから「水導観音」の名が付いたそうです。