2. 城下町 天神~福岡城
天神から赤坂と、その間にある大名エリアは福岡城の東側にあたり、その名の通り大名屋敷が建ち並んでいました。現在、都市化によりその面影の多くは失われましたが、石垣や寺社、古い地名などが往時をしのばせます。新しい街の中で、古き時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
時間…約2時間 距離…2.8km
[1] 警固神社
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神直日命、大直日命、八十枉津日命を祀ります。創建年代はわかりませんが、神功皇后との関係を伝えています。
もとは福崎ありましたが、福岡城築城のとき本丸の地となったため、下警固村の山上に移され、さらに慶長13(1608)年現在の場所に移りました。
神社名は、大宰府の防衛組織「警固所」にちなむと考えられています。
約8分
[2] 福岡藩刑場跡
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福岡藩の処刑場跡と伝えられ、天神中央公園になるときこの石碑が建てられました。
初代藩主黒田長政にしたがって福岡に入った中津合元寺の空誉上人が、ここで残虐な処刑を受け死んだという伝説があります。
約2分
[3] 福岡城跡の石垣
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天神中央公園は福岡城の東の郭にあたり、北側の枡形門に続いていた石垣の一部が、薬院新川との間に残っています。
約5分
[4] 水鏡天満宮
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今泉にあった水鏡天神(容見天神)を、慶長17(1612)年初代藩主黒田長政が福岡城の東北にあたるこの場所に、鬼門封じとして移しました。現在の天神という地名はこの神社に由来します。
鳥居の「天満宮」の額は、32代総理大臣広田弘毅11歳の時の書です。
約2分
[5] 桝形門跡
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福岡城築城のさい、今の西中島橋がかかる那珂川西岸に枡形門と石垣を築き、博多方面からの攻撃に備えました。
城下町福岡と商人の町博多を分けていたこの門と石垣は、明治22年撤去され、福博の通行のさまたげがなくなりました。
約2分
[6] 勝立寺
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日蓮宗の寺院です。江戸時代初め、蓮池の妙典寺でキリスト教との論争に勝った京都妙覚寺の僧・日忠が、初代藩主黒田長政から土地を与えられ慶長10(1605)年に開きました。
明治に入って筑前竹槍一揆の鎮撫隊総本部や西南戦争の征討軍本営が置かました。第7代台湾総督で陸軍大将だった明石元二郎の墓があります。
約6分
[7] 安国寺
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曹洞宗の寺院です。中津安国寺の僧・天翁が、黒田如水・長政から土地を与えられ、慶長6(1601)年に開きました。
母里太兵衛などの「母里家累世之墓」や「アメ買い幽霊」の伝説で知られる墓碑があります。
約2分
[8] 少林寺
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浄土宗の寺院です。慶長9(1604)年に下総出身の僧・長誉が、初代藩主黒田長政から土地を与えられ開きました。
黒田長政夫人の大涼院、三代藩主黒田光之の長男綱之、幕末の乙丑の変で処刑された勤王家月形洗蔵などの墓所があります。
約5分
[9] 母里太兵衛屋敷跡
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黒田二十四騎のひとり、「黒田節」でも有名な母里太兵衛の屋敷跡です。
この屋敷にあった長屋門は昭和40年、福岡城内に移築・復元されました。
約10分
[10] 肥前堀跡
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福岡城内堀東側には赤坂門から那珂川まで続く堀があり、肥前鍋島家が建設を手伝ったことから肥前堀と呼ばれていました。
ビルが建ちならぶ現在、「肥前堀通り」という愛称道路が堀の北側の名残です。
約5分
[11] 飯田覚兵衛屋敷跡の大銀杏
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もと加藤清正の家臣で、加藤家が肥後を改易されたのち、初代藩主黒田長政の家臣となった飯田覚兵衛の屋敷跡です。今は「飯田屋敷の大銀杏」と呼ばれた銀杏の大木だけが、藩政時代の面影を残しています。