【指定】市指定 【種別】建造物
東長寺六角堂寺伝では、大同元年(806)、唐から帰国した空海(弘法大師)が博多海辺の地に一伽藍を建立して、密教の東漸(少しづつ東方に広がって行くこと)を祈ったことに始まるという。江戸時代の行町(ぎょうのちょう、勤行町の略)はこの伝えによったものといわれる。現在の呉服町付近に当るところである。
天正年間兵火にかかり焼失したが、福岡2代藩主黒田忠之が現在地に、本堂・護摩堂・鐘楼・大日堂を再興し、寺産二百石を寄進した。3代藩主光之も百石と山林15万坪を加増した。黒田家の菩提寺は、崇福寺(博多区)であるが、当寺は忠之・光之および8代藩主治高の墓所であり、同家の準菩提寺となっている。忠之を葬る五輪塔は個人墓としては日本で2番目の大きさと言われる。
本六角堂は、覆屋と回転式の仏龕からなる仏殿である。建立年代は天保13年(1842)、設計者は尾張名古屋居住の代々社寺建築を専門とした8代伊藤平左衛門守富。内部に設けられた六角形の回転式の仏龕は形態的には輪蔵である。各六面に弘法大師像・文殊菩薩像・地蔵菩薩像、薬師如来像・白衣観音像・北辰霊符神像を安置する。
輪蔵は経典を納める回転式の書架と言うべきもので、文字を識らない庶民でもこれを回すことで諦経の功徳が得られるようにと考案されたと言われる。市内には聖福寺(博多区)・崇福寺(博多区)に輪蔵が残るが、いずれも経典を納めるものであり、これを覆う建物も経蔵と呼ばれている。
本六角堂の特色は、輪蔵を回転式の仏龕として機能させ、また覆屋にもそれにふさわしい設計を施して全体として礼拝の場、即ち仏殿として機能されたところにもとめられる。
覆屋は周囲一間に吹き放ちの庇を付け、六角形の各辺に桟唐戸の折戸を設け、堂をめぐりながらいずれの柱聞からも礼拝が可能な造りである。正面柱間は他の五辺より広くなっており、六躯の仏像を納めた輪蔵(仏龕として機能している)は、中心より一尺八寸程後方に下げて設置されている。これもまた、仏像前方の空間を広くし
た礼拝に便利な設計である。
重層の屋根を行基葺という古い工法で葺いている点も珍しい。これについては、守富の残した『見聞学行跡集』に「萬歳楼好ニテ」とある。萬歳楼は本六角堂の施主で、博多上東町(現呉服町付近)で売薬や漆問屋を営んだ豊後屋栄蔵のことである。鬼瓦の文様その他に亀の意匠が目立つのも施主の意向であろう。
副 称 | 附 仏龕1基および卓1脚 |
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指 定 | 市指定 |
区 分 | 有形文化財 |
種 別 | 建造物 |
所 在 地 | 福岡市博多区御供所町2-4 |
時 代 | 江戸 |
所 有 者 | 東長寺 |