金印

【指定】国指定 【種別】考古資料

金印

 「漢委奴国王」金印は、天明4年(1784)に志賀島(現在、福岡市東区)の叶崎(かなのさき)というところで二人持ほどの石の下から発見された。発見者は百姓甚兵衛である(あるいは秀治と喜平ともいい、この2人は甚兵衛の傭人ともいう)。発見のもようを伝えるのは、当時の那珂郡役所奉行津田源次郎に宛てて甚兵衛がさし出した「天明四年志賀島村百姓甚兵衛金印掘出・付口上書」である。
 金印を最初に鑑定したのは、当時の黒田藩西学問所、甘棠館の館長亀井南冥である。南冥は『金印弁』を著わして、『後漢書』東夷伝に、「建武中元二年(西暦57年)、東夷倭奴國、奉貢朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭國の極南界なり、光武、賜うに印綬を以てす」とある漢印そのものであることを説き、金印の重要性を訴えた。南冥の努力により、金印は黒田藩庫に納められ、永く保存されることになる。
 その後、江戸時代から現在まで多くの学者が金印の考証、研究をすすめてきた。金印偽物説もとなえられたことがあるが、中国古印や金印の科学的測定によって否定されている。今日ではこの金印が、光武帝より委奴国王に賜与された印であることは疑う余地がない。
 岡崎敬氏が通産省計量研究所の協力で1966年に実施した金印の測定結果によれば、総高2.236cm、鈕高1.312cm、印面の長さ平均2.347cm、質量108.729g、体積6.062、比重17.94の鋳造品である。印面の寸法は漢代官印の方一寸に合致するものである。印面には、漢隷で漢・委奴・國王の三行五文字が薬研彫りに陰刻され、鈕は蛇がとぐろを巻いて頭を右上方へ向ける姿を表わし、綬を通す孔がある。
 印文の読み方については、江戸時代には、「漢のイト(伊都)国王」説が主流を占めたが、1892年に三宅米吉博士が「漢のワ(倭)のナコク(奴国)王」と読み、今日ではこの読み方が定説化している。偽物説の一つの根拠となった蛇鈕については、1957年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から、「王之印」蛇鈕金印が発見され、金印が真物であることを例示した。
 今日、最も問題となっているのは、志賀島から出土した理由と出土遺跡の性格に関するものである。これらについての論争は、大正時代の初めから行われ、墳墓説、隠匿説、志賀海神社磐座説、祭祀遺跡説などの諸説がある。現在も決着はついておらず、考古学上の重要な課題となっている。
 金印は、わが国の古代史や対外交渉史を考える上で、きわめて重要な歴史資料であることから、昭和29(1954)年に国宝に指定された。永く東京国立博物館に寄託されていたが、福岡市美術館の開館にともない、1978年に黒田家から福岡市に寄贈された。

副 称

(印文「漢委奴國王」) 福岡県糟屋郡志賀島村出土

指 定 国指定
区 分 有形文化財
種 別 考古資料
所 在 地 福岡市早良区百道浜3-1-1 福岡市博物館
時 代 弥生
所 有 者 福岡市

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