遺跡のみどころ

吉武高木遺跡を代表する3つの重要遺構と、吉武遺跡群の変遷について紹介します。

吉武遺跡群の発展と衰退

1.吉武遺跡群とは

国史跡吉武高木遺跡の周辺には、旧石器時代(約2万年前)から江戸時代(約200年前)にいたる数々の遺跡が営まれています。この地は古くから水田・農地として利用されていましたが、ときおり土器や石器が採集できたことから、遺跡があるのでは?と考えられていました。そこで、福岡市は昭和43( 1968)年に遺跡分布調査を行って遺跡の存在を確認し、「飯盛弥生遺跡」「樋渡遺跡」「高木甕棺遺跡」などの遺跡を登録しました。

現在、高木地区・大石地区・樋渡地区に広がるこれらの遺跡を統合し、まとめて「吉武遺跡群」と呼んでいます。吉武遺跡群は、北の日向川と南の竜谷川にはさまれた扇状地上に広がっており、その面積は40ヘクタール(400,000㎡)にもおよびます。

2.弥生時代の吉武遺跡群

弥生時代における吉武遺跡群の変遷について、ここでは発展期・展開期・衰退期の3期に分け、みていくことにしましょう。

弥生時代の吉武遺跡群
発展期

発展期

中期はじめ(約2,200年前ごろ)

前期のおわりに「北のむら」、続く中期のはじめに「南のむら」と、集落が相次いで出現しています。そして、高木地区では他地域にさきがけて豊富な副葬品をおさめた「特定集団墓」が、大石地区では青銅製武器をおさめた甕棺墓群が、それぞれつくられました。同時に周辺においても、小規模な甕棺墓群が、形成されはじめます。

発展期

展開期

中期中ごろ~おわり(約2,100~2,000年前ごろ)

高木地区では特定集団墓の形成が終わり、「大型建物」が出現します。大石地区周辺では甕棺墓群形成が最盛期をむかえ、「甕棺ロード」となります。樋渡地区では墳丘墓がつくられ、中には中国鏡や鉄製武器を副葬した甕棺墓もありました。同じころ、後に「伊都国」「奴国」と記される地域では、「王墓」と呼ばれる特別な墓があらわれます。

発展期
後期はじめ(約1,900年前ごろ)

衰退期

後期はじめ(約1,900年前ごろ)

高木地区の大型建物は姿を消し、樋渡地区の墳丘墓や大石地区の甕棺ロードの形成も終わります。「北・南のむら」は規模が小さくなり、かつての隆盛は影をひそめていきます。

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