平尾山荘
紹介文
郷土出身の幕末の女流歌人として、また維新の先覚者の一人として異彩を放つ野村望東尼(のむらぼうとうに)の閑居地である。
本名は「モト」といい、文化3年(1806)9月6日、福岡藩士浦野重右衛門勝幸(300石)の三女として、福岡城の近傍南谷の御厩後(現在の中央区六本松三丁目付近)に生まれた。文政12年(1829)野村新三郎貞貫(413石)の後妻となり、弘化2年(1845)貞貫とともにこの地に隠棲、大隈言道について和歌を学んだ。
音もなき寛の水のしたたりも
たりあまりたる谷の一つ家
これは、モトがこの山荘を詠んだ和歌の一つである。
54歳の時、夫を喪い、博多の曹洞宗明光寺住持元亮巨導禅師によって剃髪し、向陵院招月望東禅尼となった。このころから勤王の志を抱き、平野国臣、中村円太、長州の高杉晋作等を庇護した。しかし、徳川幕府体制の維持を図る佐幕派が藩内の勢力を占め、勤王派を一網打尽に処刑するに及んで、慶応元年(1865)10月望東尼も捕えられ、姫島(糸島市)に流された。
幽閉11カ月、高杉晋作に救い出されて馬関(下関市)に移り、さらに三田尻(防府市)に移り、慶応3年(1867)11月、62歳で没した。
歌集として、「向陵集」、「ひめしまにき」がある。
当初の草庵は腐朽してしまったが、明治42年(1909)に組織された向陵会により復元され、その後望東会に引き継がれて再建され、現在は福岡市が管理している。
*山荘及び管理棟の開館時間 午前9時から午後5時まで(入場は,午後4時30分まで)。園内は,常時見学いただけます。
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