弥生時代最大級の「奴国」の治水事業 ~比恵遺跡群第131次調査の成果より~ 【2014年07月22日】
【2014年07月22日】
比恵遺跡群(ひえいせきぐん)は、福岡平野を博多湾に向かって流れる那珂川(なかがわ)と御笠川(みかさがわ)に挟まれた低丘陵の上に立地しています。これまでの調査で、この遺跡は、弥生時代から古代にかけての有力な大集落であったことが分かっています。特に弥生時代中期後半から古墳時代はじめ頃(紀元前100年~紀元後300年頃)には、『魏志倭人伝』に記された「奴国」の一大拠点であったことが明らかになってきました。
今回発掘調査を実施した第131次調査地点は、JR博多駅の南東約900mに位置します。調査区は西側の台地部分とその東側の南北方向の流路部分に分かれます。台地部分では、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)や掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、水田の給排水のための水路などが確認できました。
流路部分では、弥生時代後期から古墳時代のはじめ頃(紀元前後~紀元後300年頃)にかけて機能したと考えられる4列の井堰(いぜき)が発見されました。井堰とは、河川や流路を木や石などでせき止めて水位を調整するための装置で、水田経営に欠かすことのできない施設の一つです。
今回発見された井堰は、主に横木とそれを支える斜めに打ち込まれた木ぐいで構築されています。水流に直交する方向に横木を置き、流れに耐えられるように多くの木ぐいで固定を図る作業を連続させて、流路の水を受けるよう緩いアーチ状に造られています。なお、横木として使われている木材には、建物に使われていた柱などを転用したものなどがありました。なかには長さ8mを超える建築材もあります。また、井堰の中からは、当時の鍬(くわ)などの農具も出土しています。
この4列の井堰は、おおむね下流側から上流側に向かって補修や増築を繰り返しながら、徐々に規模を大きく、強固なものにしていったと考えられます。そして、これらの井堰は、古墳時代の4世紀頃の洪水によって壊され、埋もれてしまったようです。
今回検出された井堰の長さは約16mですが、流路の幅は約60mと想定されており、実際にはより大規模な構造であったと予測できます。また、太くて長い横木を何段も積み重ねている状態は、水流で岸がえぐられてしまうことを防ぐ護岸(ごがん)の役割も担っていたと考えられます。また、この流路は、本遺跡群が立地する台地の北を東西方向に断ち切るように掘削された幅20m以上の流路に続くもので、井堰は、台地の裾に沿ってカーブするところに設置されていました。
今回調査された大規模な井堰は、灌漑(かんがい)のみならず、周辺の治水や水運等に機能していた可能性があります。金印「漢委奴国王」を授かった頃の福岡平野の人々が、知恵と高度な土木技術で水を制御しようとした様子を伝える極めて貴重な発見といえます。