東日本大震災復興支援職員 発掘現場だより 【2017年02月14日】
【2017年02月14日】
東北古代の鉄づくり
~東日本大震災復興支援発掘調査・川内遺跡の現場より~
福岡市では、平成25年度から東日本大震災被災地での発掘調査を支援するため、文化財専門職員を派遣しています。今回は現在派遣中の宮城県亘理郡(わたりぐん)山元町(やまもとちょう)の川内(かわうち)遺跡の発掘調査についてご紹介します。
1.遺跡の場所と調査のいきさつ
川内遺跡は、宮城県の南、福島県に近い亘理郡山元町の丘陵の上にあります。東日本大震災の復興事業に必要な土砂採取工事が計画され、遺跡が影響を受けることとなったため、山元町教育委員会が約20,000㎡を発掘調査中です。
2.遺跡の内容
おもに平安時代のはじめ(約1,200年前)ごろの「鉄づくり」に関係する施設の跡がみつかっています。丘陵の斜面に、製鉄炉(せいてつろ)(砂鉄を高熱で溶かして鉄をとりだす施設)や、木炭窯(もくたんがま)(薪を高熱で焼いて炭を作る施設)がみつかり、それらの周辺に竪穴建物(たてあなたてもの)や掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)などを確認しています。
1)製鉄炉
丘陵の斜面で炭がつまった長方形の穴がみつかり、そのまわりから鉄滓(てっさい)(砂鉄を溶かす時に出る不純物のかたまり)がたくさん出てきました。長方形の穴は、製鉄炉の下の部分で(上の部分は壊れて無くなっています)、まわりからは「ふいご」(製鉄炉の火力を上げるために風を送る施設)の痕跡も確認できました。
(2)木炭窯
丘陵の斜面に炭や焼けた土が集まっている場所があり、そこを掘ってみると、トンネル状の穴の中で炭を焼いた「窯(かま)」があることがわかりました。トンネルの天井は崩れているので、その土を取り除くと、高熱を受けて硬くなった窯の壁がきれいに出てきます。トンネルを掘り直して何回か炭を焼いているものや、途中で窯が崩れてしまって中に木炭が残ったものなども確認されています。これらの窯で作った木炭を、製鉄炉で砂鉄を溶かすための燃料に使ったと考えられます。
(3)竪穴建物
1辺3mほどの四角形の穴で、中に「かまど」(土器で煮炊きするための設備)がある竪穴建物が確認されています。かまどの先には小さなトンネル(煙道(えんどう))が掘られていて、けむりを建物の外に出していたことがわかります。鉄づくりに関わった人びとが使ったのであれば、「住居」だけでなく、鉄を加工した「工房(こうぼう)」でもあった可能性もありますが、それを証明する痕跡はまだみつかっていません。
(4)掘立柱建物
比較的ゆるやかな斜面に規則正しく並んだ柱の穴の列を確認しました。柱穴しか残っていないため、はっきりしたことはわかりませんが、鉄づくりに関わる材料や食料を入れた倉庫の可能性が考えられます。
3.遺跡のもつ意味
平安時代のはじめごろといえば、桓武天皇(かんむてんのう)が坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命して(797~804年)、東北地方の支配を進めたと言われています。宮城県から福島県の太平洋岸では、今回ご紹介した川内遺跡のような製鉄遺跡が多く見つかっていて、多賀城(たがじょう)(宮城県多賀城市)を拠点とした東北支配をその背後で支えたものと考えられています。川内遺跡での鉄づくりの内容や、近隣の同じ時代の遺跡との関係を研究することは、歴史書に記録されていない東北地方の新しい歴史を明らかにする可能性をもつもので、今後の文化財としての活用が大いに期待されます。