平成18(2006)年度の成果

平成18年度は木製品が42遺跡1,092点、金属製品を中心とするその他の材質は48遺跡791点の保存処理を行いました。以下、主要なものについて紹介します。

木製品

博多遺跡群出土の木製品(中世から近世)

博多遺跡群はJR博多駅北方に広がる弥生時代から近世にかけての複合遺跡です。11世紀後半、それまで鴻臚館でおこなわれていた外国との交易の場が博多に移り、町は急速に発展しました。博多遺跡群の基盤層は砂丘の砂で、砂丘は海岸線にそって3列あります。町が広がるにつれ、これらの砂丘の間の低湿地を埋め立て、生活域を拡大させていることがわかりました。この低湿地部分の調査をおこなうとたくさんの木製品が出土しました。18年度はこの博多遺跡群の木製品を1,000点近く保存処理し、中世から近世に博多の人々が使用した様々な木の道具が活用できるようになりました。今回はその中からいくつか紹介いたします。
最初にいろいろな職人の道具を集めてみました。
刷毛は毛の部分は残っていませんが、毛を差し込むために割った部分や固定した痕跡が観察できます。1本には墨が付着しています。漆を塗るためのヘラや漆を入れていたと思われる、漆が付着した曲物も出土しています。

刷毛

漆ヘラと漆が付着した曲物

小型の円盤は紡錘車です。軸を付け回転させ、糸に撚りをかけます。糸巻きの支え木はもう一つ同様なものと十字に組み合わせ、これを2組作り、腕木4本と組み合わせ、糸を巻きました。編錘は俵など藁を編む時の重しとして使われました。砧(きぬた)は藁をやわらかくするためのものです。

紡錘車

編錘

糸巻きの支え木

砧(きぬた)

工具の柄も出土しています。差し込むための孔と、抜けなくするために巻くひもがずれないようにする溝があります。包丁の柄かもしれません。包丁のセットであるまな板はあまり出土しません。折敷(おしき)や曲物の底板を利用していたようで、包丁傷が多数残っています。明かりは土師器の皿に胡麻や麻などの油をいれ、灯芯をおいて使用しました。皿の縁に黒色のタール状のものが付着しています。転倒しないように木製の台におかれました。装身具は櫛、扇の骨、傘のろくろが出土しています。

工具の柄

まな板に転用された折敷

灯明台と灯明皿

扇の骨復元展開

傘のろくろ

次に食事の道具を見てみましょう。箸は大量に出土します。1本1本きれいに削いであり、現在の割り箸よりも丁寧なつくりです。欠損してないものも多く、使い捨てだったのでしょうか。折敷は食器をのせる台として使われます。杓文字(しゃもじ)は現在のものと同じかたちです。

折敷

杓文字

木製の容器は多数あります。曲物は大小様々な大きさがあり、用途も多岐にわたります。絵画資料にも多数描かれており、頭に載せたり、肩に担いだり、重ねてぶら下げたりといった使用法がみられます。また、小型のものは柄杓として柄を付けて使用されています。小円孔のある円形の円盤は樽の蓋でしょう。小孔に蓋をする木栓も出土しています。木製の円盤のうち、取っ手がついていた痕跡があるのは鍋の蓋でしょう。

曲物

樽・鍋の蓋 曲物

今回保存処理をおこなったものの中でもっとも興味を引いたのは履き物でした。様々な種類の履き物が出土しています。
下駄は構造から大きく2種類に分けられます。台と歯を一木から作り出したものを連歯(れんし)下駄、台と歯を別の部材で作り組み合わせたものを差歯(さしば)下駄といいます。また、差歯下駄には台にほぞ孔を貫通させ、歯を固定させる露卯(ろぼう)下駄とほぞ孔の無い陰卯(いんぼう)下駄があります。
台の形が丸いものや方形のもの、子供用の小さいものなど様々な形態があります。

連歯下駄(手前)
差歯下駄(奥)

露卯下駄(手前)
陰卯下駄(奥)

大きさ各種

近世の下駄 草鞋を貼り付けたのか

近世の下駄 駒下駄

板草履は草履の芯となる薄い板で、2枚で1セットとなります。この板に藁やい草で編み込みます。前方に前緒を結ぶ孔と中央両側縁に後緒を噛ませる凹みがあります。表面に藁の痕跡が残っているものもあります。草履下駄は近世に使用されたもので、歯が無いものがほとんどです。草履を貼り付けて使用したもので、側縁には固定用の木釘の跡があります。鼻緒を通す孔はありません。代わりに前方部に草履の鼻緒を収める凹みが作られています。表面には藁が残っているものがあります。

板草鞋

藁の痕跡

草鞋下駄

草鞋の痕跡

最後は和式便所の前面に取り付けられた金隠しです。長さ35.4センチ、幅29.3センチ、厚さ7ミリの板で、上部は角を取り、下部は枠受けを削り込んでいます。取り付けた際の釘穴が斜め30度方向にあけられ、枠受けの角度とあわせ、取り付け状況を物語っています。近世のものです。

金隠し

福井県一乗谷朝倉氏遺跡の復元厠

金属器等

青銅器・ガラス器の加工具(井尻B-17次調査:弥生時代後期)

井尻B遺跡は南区の西鉄井尻駅を中心とする地域に広がる、弥生時代から古代の遺跡です。周囲に広がる比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡群、春日市の須玖(すぐ)遺跡群といった遺跡を含め、中国の歴史書、いわゆる『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にある「奴国(なこく)」に相当する地域と考えられています。これらの地域では青銅器製作に用いられた道具である鋳型(いがた)、坩堝(るつぼ)などの作業痕跡が多数見つかっており、弥生時代当時の最新技術がこの地で花開いていたことがうかがえます。
2000年から始まった17次調査では、祭祀に用いられた青銅器「戈(か)」の鋳型や、青銅を溶かして鋳型に流し込むための道具である、坩堝(るつぼ)あるいは取鍋(とりべ)の破片、用途は不明ですが、通常の弥生土器の底に、青銅が付着したものも見つかっています。坩堝の破片は分析の結果、青銅の成分が検出されており、実際に使用されたことが明らかになりました。

製品としては、小型イ方製鏡(こがたぼうせいきょう)や小銅鐸(しょうどうたく)が出土。鏡は中国鏡の銘文(めいぶん)を意識したと見られる文様が入っています。
この他、青銅器以外でもガラス勾玉の鋳型3点が出土しています。ガラスも素材を高温で溶解して加工しますので、青銅と共に強い火力を制御する技術が同じ地に展開し、工房として機能していた様子が想像されます。この資料も分析をすると鉛やバリウムといった元素が検出されることから、当時、広く流通していた鉛バリウムガラスという種類のガラスが加工されたと考えられます。

弥生時代の鉄器加工(飯倉D-1次調査:弥生時代後期)

飯倉D遺跡は油山から派生する丘陵上に位置する、弥生時代後期を中心とする集落遺跡です。1993年に発掘調査が行われ、鏡の鋳型が出土したことで特に注目を集めました。また弥生時代の鉄製品も比較的多く出土しており、それらの成果は既に報告書として刊行されています。しかし、鉄製品について、透過X線などの装置で再調査を行った結果、新たな情報が得られ、それを元に本格的な保存処理を実施。これまで知られていたよりも多くの鉄製品や、その加工に関わると見られる資料も含まれていることが分かりました。

古墳時代の鉄器加工(博多156次調査:古墳時代前期)

博多遺跡群は、砂丘の上に広がる中世の都市遺跡として有名です。しかし砂丘の付け根付近の祇園町(ぎおんまち)周辺では、弥生時代や古墳時代の生活址が、中世の層の下から発見されます。特に59次、65次、147次の各調査区では、古墳時代前期にさかのぼる、鉄器の製作痕跡がまとまって見つかりました。中でも65次調査で出土した鞴(ふいご)鞴の羽口(はぐち)やそこに付着する椀形滓(わんがたさい)は、それまでにない高温での作業を示すもので、非常に高い技術の加工が行われていたと評価され、これまでにも様々な論文や展示で紹介されてきました。147次調査では、1,000点を超える鉄片や素材、未製品などが出土しており、非常に大規模な鉄器生産が行われていたことが分かります。この資料は現在保存処理中で、近々改めてご紹介したいと思います。
156次調査は、65次調査区の西側150メートルほどの場所で、鍛冶遺構は見つかっていないものの、鍛冶作業に関連する資料が散見されます。これら不定形の鉄片などは加工途中の製品や、加工に伴って生じた素材と考えられます。また、朝鮮半島系の鋳造鉄斧(ちゅうぞうてっぷ)の破損品と見られるものも含まれていて、リサイクルのための素材であったのかもしれません。この他、製品として非常に作りの良いヤリガンナや鉄鏃(てつぞく)も出土しています。

古墳の副葬品に残る痕跡(羽根戸古墳群N群:古墳時代後期)

羽根戸古墳群は、背振(せふり)山系から派生し長垂(ながたれ)山に至る丘陵上に所在する後期群集墳です。2004年度に行われたN群21号墳の調査では、径10メートルほどの円墳から、武器(大刀・鉄鏃)、農具(鎌)、工具(斧・刀子)の他、ピンセット状の鉄器である鑷子(じょうす)が出土しました。これらの副葬品は後期古墳の出土品としては一般的なものですが、ここで注目されたのは鉄器の表面に残る様々な痕跡です。これらの道具類は、当然、使用にあたっては鉄の部材に木や繊維など、様々な有機物を組み合わせていました。しかし有機物は、埋蔵環境下では微生物などによって分解されやすく、失われてしまう場合がほとんどです。低湿地などで密度の高い粘度などにパックされていると残ることもありますが、古墳が作られるのは多くが丘陵上で、有機物にとっては過酷な状況です。しかし、金属が腐食する際に金属成分が有機物に染みこむと、錆の殻によって、有機物そのものが失われても、その形状が残ることがあります。
大刀には鞘を固定し、同時に飾るための組紐や、柄に巻かれた繊維が残っていました。
鎌には、比較的粗い織りの布が付着しています。おそらく麻布(あさぬの)であると考えられます。

鑷子は用途不明の鉄器です(平成15年度の成果参照)。この鑷子と刀子には、ハエのサナギの痕跡が残存していました(平成16年度の成果参照)。

科学機器調査最前線(博多153次調査:中世から近世)

博多153次調査地点は、文献や隣接する万四郎神社の存在から、江戸時代初期の博多商人である伊藤小左右衛門か、その子供の万四郎の屋敷である可能性が考えられています。建物の入り口にあたると考えられる場所には、1メートル程の大きさの穴が掘られていて、そこには青銅製の盤(ばん)2点、花瓶(けびょう)、鉄製の壺が一括して埋められていました。これらの資料は地鎮(じちん)などの目的で、意図的に埋納されたと考えられます。穴の時期は共伴する陶磁器などから17世紀代と見られますが、出土した青銅器類は形式的に中世までさかのぼると考えられるもので、ある程度伝世した上で埋められたものと見られます。
これらの青銅器類は、埋蔵文化財センターで蛍光X線分析
(けいこうえっくすせんぶんせき)による材質調査を行ったほか、九州国立博物館では、最新の機器による構造調査も行いました。これはX線CTと呼ばれるもので、従来の透過X線とは異なり、資料を360度回転させ、X線を全周から照射。そのデータをコンピュータ上で画像構築して立体的に資料を観察するものです。結果として、実際には絶対に不可能な、資料を輪切りにした状態での断面や内部の観察が自由自在です。特に花瓶の調査では、容器の底板が少しずれている様子が映し出され、本体を鋳造後、別の部材をはめ込んだと考えられます。

古代から中世の鏡

今年度は、古代から中世の鏡が数多く保存処理されましたので、それらをまとめて紹介します(一部過年度のものも含みます)。
箱崎46次と吉武9次の鏡は八稜鏡(はちりょうきょう)と呼ばれるものです。元々は中国の唐で作られていましたが、やがて日本でも形を真似たものが作られるようになります。この種の鏡は銅の質がよいものが多く、特に吉武遺跡の例は文様が非常に鮮明に見えます。また、割れ口がシャープであることからも、錫を多く含んでいることが分かります。9世紀頃の資料と考えられます。

都地泉水(とじせんすい)遺跡では、土壙から12世紀頃と見られる陶磁器の破片と共に、湖州鏡(こしゅうきょう)が出土しました。湖州鏡は中国宋代の鏡で、かまぼこ形の縁を持ち、文様はなく、「湖州****」という銘が鋳出されているのが特徴です。市内ではこれまでにも墓の副葬品などとして20枚近くが見つかっており、今回の発見はそれほど珍しいものではありません。ただ、この資料をよく観察すると、元々鋳出されていた長方形区画の銘帯(めいたい)と鈕(ちゅう)を挟んで向かい合うように、非常に細い線彫りで長方形の区画と文字が彫られているのが分かります。顕微鏡で詳細に見ると、漢数字で「四五六/六七八九十」と読めます。何かまじないなどの意味があるのか、はたまた当時の人の遊び心か分かりませんが「人の手」の痕跡が伝わる資料と言えます。

博多62次の資料は、1989年の発掘調査以来、長らく収蔵庫で不明資料として眠っていました。しかし、よくよく観察すると、中世の柄鏡の柄と見られる部材が含まれており、その他の破片を根気よくつなぎ合わせたところ、ある程度の形に復元することができました。同じ様な柄を持つ鏡は、東区の戸原麦尾(とばらむぎお)遺跡で見つかっています。こちらの資料は鳳凰(ほうおう)文や雲文などの精緻な文様があり、高麗(こうらい)の鏡と考えられています。それに対して博多62次の資料は一見すると文様はなく、高麗鏡の原型となった湖州鏡である可能性も考えられます。いずれにしても、この種の柄鏡は例が少なく、貴重な資料といえます。しかし、あまりにも腐蝕が著しく、詳細が不明なのは悔やまれるところです。

原19次の鏡は、日本で作られた和鏡で、亀甲文(きっこうもん)と二羽の雀が鋳出されています。この資料では、鏡の文様と共に、鏡面に広く残る布目が目に付きます。この布は、顕微鏡を使った詳細な調査で、麻布であることが分かっています。箱崎40次の資料も和鏡で、不鮮明ではあるものの2羽の鳥が見えます。鏡背面には錫をめっきしたようで、銀色にキラキラ光っている部分があります。また紙に包まれていたらしい痕跡も残っています。13から14世紀と見られるお墓から、陶磁器や櫛などと共に出土しました。

和同開珎(博多156次調査:古代)

和同開珎は、富本銭(ふほんせん)の発見によって、日本最古の貨幣という地位は奪われてしまいましたが、古代の貨幣制度を代表するものとして、その価値が衰(おとろ)えることはありません。市内では博多遺跡群のみで過去8枚が発見されており、この遺跡が中世だけでなく古代にも重要な役割を担っていたことが分かります。本例はこれまでの中でも文字も鮮明で、非常に残りの良い資料といえます。

変わった材質の銅銭(博多153次調査:中世)

この銭は、元祐通寶(げんゆうつうほう)(または元符通寶(げんぷつうほう))という、中国「北宋」代の貨幣です。博多では貿易に伴って多量の中国銭が持ち込まれ、遺跡群全体でこれまでに約7,000枚が発見されており、元祐通寶自体も特に目新しいものではありません。しかし、ここで注目されるのは、その材質です。出土当初、この資料は鉄錆(てつさび)に覆われており、当初は鋳鉄(ちゅうてつ)製かと見られていました。しかし保存処理で詳細に観察すると、部分的に緑青(ろくしょう)も見られ、錆を除去した結果、普通の銅銭とは異なる灰色の外観が現れたのです。これを分析したところ、銅と鉄、それにヒ素が検出されました。通常の中国銭は、銅、錫、鉛の青銅製で、この様な組成のものはこれまでに見たことがありません。輸入されたものか、日本でコピーされたものかを含め、今後の課題です。

特異な形状の銅鏃(下月隈C7次:弥生時代後期)

下月隈(しもつきぐま)遺跡は、福岡空港滑走路の南端を中心に広がる、縄文晩期から古代を中心とする大規模な遺跡です。その中の下月隈C遺跡4から9次調査は、洪水対策の調整池建設のために、1996年から2002年まで行われ、弥生時代及び古代の水路や水田が発見されています。様々な遺物が出土する中から、今回は2点の銅鏃を選んでみました。これまで福岡市内では、弥生時代の銅鏃が数多く出土していますが、ほとんどが細長い三角形の刃部に断面円形をした棒状の茎が付いたタイプが主流を占めています。しかし、下月隈で出土したものはいずれも茎は無く、1点は下端が∩字形に抉れた形で矢柄(やがら)を固定するためか、あるいは重さを調節するためか、小さな孔が左右均等に3個ずつ計6個、あいています。もう1点は木の葉のような平面形で、中心軸の左右に透かしを持っています。この様な形はほとんど例がない珍しいものです。儀式用など、何か特別な用途を考えるべきなのかもしれません。これらの資料は材質分析を行ったところ、一応、青銅の成分である銅、錫、鉛が検出されていますが、その割合は通常の青銅と異なり、ほとんどを銅が占めています。この様な組成の青銅器は、低湿地の遺跡から出土するものに多く、作られた当時の成分というよりは、埋まっている環境で各種成分が溶け出すなどして、合金の比率が変化した可能性が考えられます。