高取焼窯元
紹介文
文禄、慶長の役(1592年~98年)は別名「やきもの戦争」とも呼ばれているように、日本の陶磁器に多大の影響を及ぼしている。それは日本軍が帰国の折に様々な文物を持ち帰り、専門職集団を強制移住させたが、その中に「やきもの」や「陶工」の比重が圧倒的であったことに因んでいる。高取焼も文禄、慶長の役後に開窯された焼物の一つである。
黒田長政は文禄・慶長の両役に参加したが帰国の折に朝鮮人陶工「八山」を連れてきた。
来日直後のことは不明であるが、慶長5年(1600)黒田長政が筑前に転封されたことに伴い、豊前から筑前に移ったものと思われる。
最初の窯場は直方市の郊外鷹取山麓にある永満寺宅間に開かれた。この地に因んで焼物の名称も「高取焼」と命名された。
慶長19年(1614)には鷹取山の北斜面、内ヶ磯に移動している。ここでは焚口1室、焼成室14室の連房の巨大な登窯を築き、永満寺時代よりも大規模でしかも高火度の作品が焼成できるようになっていた。
元和9年(1623)長政が没すと、八山父子は祖国朝鮮へ帰国を願い出たが許されず、禄は取り上げられ、嘉摩郡上山田村に蟄居を命じられた。これが山田窯である。
寛永7年(1630)八山父子は許され、穂波郡白旗山麓に開窯した。『高取歴代記録』によると茶人小堀遠州の指導をうけ、七色の釉薬を特色とするいわゆる「綺麗さび」を基とした茶陶を展開し、数々の名品を残している。この時代を遠州高取と呼んでいる。
この後も寛文5年(1665)には上座郡鼓村で小石原鼓窯を、次いで貞享年中(1684~87)には早良郡田嶋の大鋸谷窯へと移り、享保元年(1716)に早良郡祖原に東皿山窯を開いた。
東皿山窯は、明治4年(1871)廃藩置県に至るまで最も永く営まれた。この窯は茶陶を専門としたため、庶民の日用品生産のため西皿山窯が築かれ、東西二つの皿山が運営されていたのである。
廃藩以降は藩の庇護がなくなり、自立自営を余儀なくされたため一時衰微したが、現在は再興され、亀井味楽氏が東皿山窯系の茶陶の技法を、原豊氏が西皿山窯系の日用雑器の技法を伝えている。
亀井味楽氏の工房のある敷地内には味楽窯美術館が付設され、一般に公開されている。
*(味楽窯美術館)福岡市早良区1丁目26
10時~17時開館。日・祭日休館。電話092-821-0457。
地図
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