今津人形芝居                                             
                                    
                
            
            
            
            
                            
                 
                                    紹介文
 今津の人形芝居は、明治24年3月、もと隣村大原にあった大原操人形の諸道具一式を譲り受け、恵比須座として創設されたものである。大原操人形は、弘化年間(1844~47)、村の若者の間に流行していた賭博をやめさせようと、地元の有力者鯛川弥蔵が、当時この地方を巡業していた阿波や中津在の北原人形芝居を採り入れたのが始まりという。主として若者組によって演じられていたが、若者組を退いた壮年たちの操人形に対する想いは絶ち難く、遠賀郡の田中新十から道具一式を譲り受け、若者組の旧座に対して新座を結成した。かくて新旧二座が互いに技を競い合うという大原操人形の全盛期を招来したが、半面その対立が村の平和を乱すこととなり、遂には村の有志等の協議により人形芝居を廃止することとなった。当時、今津から大原に通って人形芝居の仲間に入っていた宗善次郎がその廃絶を惜しみ、今津の人びとを説得、両座の人形道具一式を買い受け、新たに今津操人形として恵比須座を結成した。
 恵比須座は太夫5~6名、人形遣い20名、学校休みには少年も加わり、日露戦争ごろを最盛期として、糸島郡内はもちろん、福岡市内、早良、筑紫、粕屋郡などのほか、県外にも招かれて好評を博した。人形は阿波・北原と同じく三人遣いで、かしらは中津製が多く、天狗久の作も混じっていた。人形遣いをはじめ、浄瑠璃・三味線はすべて地元の人びとによって行なわれて来た。
 第二次大戦中は一時中断されていたが、終戦後の昭和23年、大原の石田巌がその廃絶を惜しみ、今津の中村恒雄・重松義雄等と、恵比須座を復興、今日に至っている。
 現在保有している道具類は、大原操人形の新旧2座分で、かしら約50個のほか、衣装・大道具・小道具多数、それに三味線・太鼓・笛・鐘・鼓などの楽器がある。昭和30年代ごろからは、青年層の都市流出や娯楽の多様化などで一時衰退に向かったが、今津人形芝居の存続に熱意を燃やす経験者数名の指導によって、子ども会を中心に稽古が続けられ、その結果、高校生・青年の人形遣いが育っている。演目は、全盛期には、「本朝二十四孝 勘助住家の段」「仮名手本忠臣蔵 勘平切腹の段」「傾城阿波の鳴戸 順礼歌の段」など約20種ほどを数えていたが、現在主として上演しているのは、「傾城阿波の鳴戸 順礼歌の段」「忠臣蔵 三段目裏門の段」「鎌倉三代記 三浦別れの段」等である。
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