絹本著色仏涅槃図
紹介文
東長寺は大同元年(806)、唐から帰国した弘法大師空海が建立したと伝えられる密教寺院である。山号は南岳山。草創の地は博多海辺の地であった行町(現呉服町付近)であり、南北朝の動乱で志摩郡志登村に一時移った後、旧地に再建されたといわれる。天正年間には大師堂と通称されて博多の寺院のなかに一地歩を占めていた。現在地に移転した時期は明らかではないが、福岡藩二代藩主・忠之が大檀越になってから寺域の基礎が固まったものと推測される。
本図は、上方から俯瞰する視点で、縦長の画面に描かれる。中央に八本の沙羅双樹に囲まれた宝床が配され、その上に釈迦が横たわっている。宝床の周りには菩薩や弟子、天部などの会衆が悲嘆を示し、その下には様々な動物が集まっている。上空には満月が浮かぶ。その下には雲がたなびき、摩耶夫人が下界へ参じている。
本図は、南北朝~室町時代、14世紀後半~15世紀前半に制作されたものと考えられる。伝来については不明な点が多いが、『筑前国中神仏宝物紀』(末松喜兵衛定利稿、延享4〔1747〕年卯4月、九州大学附属中央図書館所蔵)の東長寺の項目には「涅槃像 土佐光信筆 一幅」の記述がある。これと関わって注目されるのが、黒田家の御抱え絵師であった尾形家の絵画資料に含まれる尾形守房「釈迦涅槃図」(元禄16年〔1703〕、福岡県立美術館蔵)である。本図は構図やモチーフ、描表装の意匠に至るまで東長寺涅槃図と一致しており、同図を写して制作されたとみてよい。画中の墨書に「土佐光信筆」とあり、東長寺涅槃図が土佐光信の筆によると伝承されてきたことが分かる点も貴重で、既述の『筑前国中神仏宝物紀』に掲載される「涅槃像」も本図に該当する可能性が極めて高い。従って、東長寺涅槃図は遅くとも元禄16年(1703)には同寺に伝わっていたと考えられる。さらに遡るものとしては、東長寺第34世頼賢(1556~1623)が、慶長10年(1605)春に涅槃像を感得し同寺の霊宝としたとあるが(東長寺所蔵・頼賢和尚像賛)、この涅槃像が本図に該当するかは不詳である。
正統な図様と高い出来栄えを備えた中世仏画の佳品であることに加え、近世筑前の仏画制作において強い規範性を有したことが推定できる点も貴重である。
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