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【令和6年度 資料調査速報!vol.1】福岡市内寺社資料調査事業の資料紹介

【2024年07月05日】

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明治初期の志賀海神社の七夕祭

○はじめに
 福岡市文化財活用課では、文化庁から補助を受け、市内の寺社資料調査事業を実施しています。
 令和5年度からの調査対象は福岡市東区に鎮座する香椎宮と志賀海神社の2社です。
 お宮様の許可を得て、今回の調査で発見された資料を一部ご紹介します。

 

 

○志賀海神社の七夕祭
 今度の日曜日は7月7日(七夕)ですので、志賀海神社の七夕祭についてお話します。
 志賀海神社の七夕祭は、数多くある祭礼の中でも古くから最も盛大に行われてきました。
 現在、月遅れの7月6・7日(8月6・7日の両日)に、博多湾内外の漁師たちが大漁旗を掲げ、海の守り神である志賀海神社に漁の安全と大漁を祈願して参拝します。

 

その起源は不明ですが、貝原益軒『筑前国続風土記』宝永6年(1709)には「七月七日 恒例の大祭あり 此日 おちこちより もうでくる人 多くして 所々の商人 品々のうり物を 持ちつどいて 村中市をなす」とあり、その賑わいぶりがうかがえます。

 

 

○史料から見る明治初期の七夕祭
 今回の資料調査では、明治初期のものと思われる志賀海神社の七夕祭の記録が発見されました。この七夕祭は志賀海神社の神職である阿曇(あづみ)氏と、博多に鎮座する住吉神社の神職2人の3人で斎行されたようです。

7月5日の夕方に、住吉神社の檍(あおき)神職と横田神職が志賀島へ渡海しました(このとき、宮崎神職は参らずとあります)。
 7月6日朝、御神酒や御肴(おさかな)、野菜、鏡餅、御饌(みけ)を本殿に3組、摂社今宮神社に1組供えました。
 檍神職が祝詞(のりと)を奏上し、横田神職と阿曇神職が拝礼しました。
 7月7日、鏡餅を除き前日と同じく、本殿に3組、摂社今宮神社に1組供えました。檍神職は欠勤し、横田神職と阿曇神職が代勤しました。

 

 

○住吉神社と合同で祭礼
 史料には阿曇・檍・横田・宮崎、計4名の神職の名前が登場します(ただし、宮崎神職はこのとき欠席)。
 阿曇神職は、現在の宮司のご先祖(阿曇磯興)と推測されます。檍神職と横田神職は、①この後、船で帰福するといった表現が出てくること、②『筑前一宮住吉神社史』に明治元年~3年、宮崎主膳・檍耶麻止・横田中の神職の名がみえることから、このときの七夕祭には、住吉神社の神職が渡海して、阿曇氏と共に神事を執り行ったと考えられます。

 

なぜ、住吉神社と合同なのか、合同は今回だけなのか、はっきりとわかっていませんが、明治4年(1871)5月14日の太政官布告第234号等によって制定された近代社格制度が関係していると思われます。

 

 

○七夕祭の初穂料・賽銭と「事なき柴」
 七夕祭で準備された守札は、志賀海神社の鎮火守札・悪魔除大守札・悪魔除小守札・蝗除小守札・牛馬安全守札・疱瘡安全守札・開運守札・舟中安全木札の8種、摂社今宮神社の大守札・小守札の2種、合計で10種あり、阿曇磯興神職が準備しました。
 志賀海神社の七夕祭には、「事なき柴」は欠かせません。「事なき柴」は、神功皇后が三韓から帰還した際に船の舵の柄を植えたところ、芽吹いて茂ったと伝承されるものです。枯れても葉が落ちないため、身に着けると災難から逃れ無事に家に戻れると信じられており、島外へ出る際に葉をお守りとして持参したり、船に常備したりする風習があります。
 この七夕祭の守札と「事なき柴」の初穂料の合計は189貫830文、御参物(賽銭)は6貫200文、正銭4貫350文、銅銭250文あったようです。
 とっっっても簡単に現代感覚*でいえば、初穂料の合計は約285万円、御参物(賽銭)の合計は約17万円となります。
*4貫=1両=約6万円と仮定した場合

 

 

○おわりに
 明治初期の志賀海神社の七夕祭についてご紹介しました。資料調査は現在進行中・・・今後も何か新しいことがわかるかもしれません。
 今年の七夕は、皆様にとってよい発見がありますよう短冊を認めたいと思います。
 皆様は今年の七夕の短冊に何を書きますか?

 

※資料の一般公開は行っておりません。ご理解とご協力をお願いいたします。

 福岡市内寺社資料調査事業の紹介パンフレットが令和6年3月にできました。

 末尾に関連ページのリンクを貼っておりますので、ぜひアクセスしてみてください。

 

《主要参考文献》

貝原益軒『増補筑前国続風土記』(文献出版、1988)
 広渡正利『筑前一宮住吉神社史』(文献出版、1996)
 河口綾香「島とくらし―玄界島―」福岡市博物館企画展示解説(福岡市博物館、2019)