元寇防塁(西新地区)
紹介文
文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。
元寇防塁は西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。その後この防塁が築かれたが、その構築、修理、警固番役等については知られていなかった。大正9年、西新の防塁が発掘され、昭和44年に本格的な発掘調査が行われた。防塁は、砂丘の上に粘土を敷いて基盤を安定させた上に、基部幅3.4mで石を積み上げていることがわかった。
また、西南学院大学第1号館の建設に当たって検出された防塁の発掘調査では、石塁の背面に約1mほどの間を置いて土塁がつくられ、二重構造であった。
西新地区の防塁は、昭和53年の発掘調査に整備され、見学できる。また、西南学院大学で検出された防塁は、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されている。
ただし、現在埋め立てによって海浜は大きく北に移動しており、かっての百道松原の面影はまったく失われている。
地図
近隣の文化財
-
1 西南学院大学博物館(ドージャー記念館)
- カテゴリーの紹介
- 建造物
- 絵画
- 彫刻
- 工芸品
- 書跡・典籍・古文書
- 考古資料
- 歴史資料
- 無形文化財
- 無形民俗文化財
- 有形民俗文化財
- 史跡
- 名勝
- 天然記念物
- 文化的景観
- 伝統的建造物群保存地区
- 選定保存技術
- 埋蔵文化財
- その他