博多祇園山笠行事
紹介文
博多祇園山笠は、鎮守神櫛田神社の相殿に祀られている祗園午頭天王(ぎおんごずてんのう、神道では素盞鳴尊)の祭りである。平安時代に始まった京都八坂神社の祇園御霊会(ごりょうえ)で、旧暦6月15日、山鉾を立てて町中を巡幸したのが全国に広まり、都市的な夏祭りの型を生じたが、博多祇園山笠もその一つである。伝承では承天寺の開山聖一国師が、寛元元年(1243)、流行病の病魔退散を祈した施餓鬼棚に乗って博多津中を舁き回らせ、浄水を撒いたのに始まると言われている。文献では『九州軍記』に、永享4年(1432)6月15日、櫛田祇園社の祭りで沖ノ浜に神幸のあった時、山のような造り物12台に人形を据えて舁いだ、とあるのが初見で、その後、博多を領治した大内義隆が、周防山口の祇園会に博多の6本を分けて作らせたので、博多の山笠が6本になったとの伝えが残っている。
近世の博多祇園山笠を支えて来たのは、太閤町割以来の“流”と呼ぶ町組織である。御笠川と那珂川で東西を限る十町四方の博多津中は、十流九十八町に柳町・寺町を加えて合計百町。このうち、川の流れに沿った縦町筋の東町流・呉服町流・西町流・土居町流を軸に、魚町流(福神流)・石堂町流(恵比須流)の横町筋と州崎町流(大黒流)を組み合わせた七流七十三ヵ町が、毎年の祇園祭礼中に、六流から1本宛の山笠を立て、一流が能当番を勤めるのを慣例として来た。流れでは毎年当番町を決め、当番町の責任によって山笠行事一切の運営がなされるが、これに流各町の年寄・中年・若手という年齢組織が組み込まれ、町組織と祭礼組織が一体化して営まれて来た。
時代の推移とともに山笠行事にも幾多の変遷があり、昔は高さ10数mにも及ぶ装飾豊かな飾山を舁いでいたのが、市内に電灯線が張られてから丈の低い舁山が生じ、飾山は動かない据え山となったほか、呉服町流・魚町流に代わって新たに中洲流・千代流が加わったり、日程の変更等もあっている。
現在の山笠行事は7月1日から15日まで。1日には町境に注連を張り、辻々の御祓いをして夕刻箱崎浜まで当番町が汐井採りに行く。4日は舁山の棒締めと試し舁き、6日に飾付をしたあと7日には舁山の御神入れがあり、9日に流各町の汐井採り(箱崎浜)がすむと、いよいよ山笠が動き出す。10日は流舁き、11日は早朝に朝山、夕刻に他流舁きと続き、12日には追山の全コースを試走する追山馴らし、13日には福岡部に入る集団山見せがあり、翌14日最後の流舁きをして、15日追山の当日を迎える。追山は早朝午前4時59分、太鼓の合図で一番山笠の櫛田入りがあり、境内を出ると昔ながらの巡路をとって洲崎町の回り止めまで、各流の山笠が次々と約4㎞を全力疾走する。追山が終わると山笠はそれぞれの当番町に帰り、直ちに解体される。櫛田神社では最後の山笠の櫛田入りが終わると、納めの能が舞われてすべての山笠行事が終わりを告げる。
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