鹿垣
紹介文
江戸時代の後期、能古島は黒田藩の鹿の狩猟場であった。ところが田畑への鹿の被害が著しかったため、東の北浦から西の白鳥までの東西約2kmにわたり島を南北に分断する石垣を築いた。これが現在も残る鹿垣で、天保7年(1836)に完成したという。
その構造は高さ2mの土盛りの北側に30~50cm大の石を積み、その前面に幅3mの溝を掘ったもので、これで鹿が島の南部に出るのを防いだ。幕末にはグラバー(1838ー1911)なども訪れ、狩猟をしたというが、昭和20年頃を境に鹿は全滅した。
能古小・中学校と展望台入り口の間の道で鹿垣が切れた場所に説明板が設置されている。また鹿垣の北側、島の中央頂部に東西約350mにわたって土塁が残り、島の人は「古土手」と呼びならわしている。
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