亀井(南冥・昭陽)家の墓                                             
                                    
                
            
            
            
            
                            
                 
                                    紹介文
南冥、昭陽の墓は、浄満寺境内にある。南冥は、寛保3年(1743)、早良郡姪浜村(現在の西区姪浜町)に、町医者の長男として生まれた。幼い時から詩文を学び、19歳の時、京阪の地に出て医学と儒学を修め、さらに山県周南を師として荻生狙徠の古学を学んだ。
23歳の時、居を福岡城下の唐人町に移し、南冥と号した。宝暦の末年には亀井塾蜚英館を開き、その奔放自在な学説と独自の教育で、門下に多数の人材を育てた。 36歳で、町医から藩の儒者兼医師として抜てきされ、15人扶持の士分となった。後、7代藩主治之の侍講をも務めた。
天明3年(1783)、42歳の時、福岡城の東西に東学問所修猷館と西学問所甘棠館が開講した際、西学問所の教頭(校長)に迎えられ、150石を扶持されるに至った。 しかし、朱子学を奉ずる修猷館とは対立し、幕府の「寛政異学の禁」もあって、職を追われ、失意の晩年を過ごした。
文化11年(1814)3月3日、たまたま発生した自家の火災で落命した。
なお、天明4年(1784)2月23日に志賀島の叶の崎で百姓甚兵衛により農作業中に発見された金印について、「金印弁」を著した。
南冥の長子昭陽は、南冥の学統を継ぎ、平野国臣など多くの門弟を育てた。天保7年(1836)5月、百道松原の百道林亭の学舎において、64歳で没した。
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