鴻臚館跡
紹介文
鴻臚館は平安時代、平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置された外交施設である。その名は古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、「鴻」は大きい、「臚」は伝えるという意味がある。
筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、持統2年(688)に新羅国使全霜林を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記事に初めて登場する。また天平8年(736)の遣新羅使が、筑紫館でよんだ歌が『万葉集』に収められている。承和4年(847)には鴻臚館の名称で登場し(『入唐求法巡礼行記』)、永承二年(1047)大宰府が「大宋国商客宿房」に放火した犯人4人を捕縛した記事が最後の記事となる。なお、寛治5年(1091)の記事に見える鴻臚館は、最近の研究で平安京の鴻臚館を指すものとの説が有力になっている。
鴻臚館は、9世紀前半までは、唐や新羅の使節を接待・宿泊させる迎賓館であり、遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える対外公館であった。9世紀後半以降、鴻臚館をおとづれる主役は唐(後には五代・北宋)の商人となり、中国との貿易の舞台となった。11世紀後半に貿易拠点が鴻臚館の東の砂丘にある博多に移るまで、古代日本最大の国際交流の拠点であった。
鴻臚館の位置については博多部とするなど各説があったが、九州大学教授の中山平次郎博士が『万葉集』、古絵図、地形、出土遺物等の検討から福崎(福岡城内)説を提唱し、現在はそれが定説化している。
昭和62年12月、平和台球場改修工事に伴う発掘調査で、鴻臚館の関連遺構が発見された。以後、福岡市教育委員会はその全容解明のための本格調査を継続している。現在までに確認した遣構は、奈良時代以前(筑紫館)の塀と門、奈良時代(筑紫館)の塀と掘立柱建物、平安時代の大型礎石建物、土壙、溝などである。多量の瓦類の他、中国越州窯青磁をはじめ長沙窯磁器、荊窯白磁、イスラム陶器、西アジアガラス器など国際色豊かな遺物が発掘されている。平成7年には展示館が完成し、遺構の出土状態と復元建物、また出土遺物を見ることができる。
*鴻臚館跡展示館 開館9:00~17:00(入館は16:30)。12月29日~1月3日休館。無料。TEL092-721-0282
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