1 嵐の前の静けさ -大発見前夜-
田んぼの下に広大な遺跡が?
この地は古くより農地でしたが、ときおり土器や石器が採集できたことから、遺跡があるのでは?と考えられていました。昭和43(1968)年に福岡市が行った調査で、遺跡の存在が正式に確認されました。現在では、写真の点線で示すエリアをまとめて「吉武遺跡群」と呼んでいます。
ほ場整備が計画… 遺跡はどうなる?
昭和55(1980)年度に一帯の農地を使いやすくするため,ほ場整備が計画されました。地下の遺跡が破壊される恐れがあることから、遺跡の破壊を最小限にとどめるための話し合いや確認調査が行われ、破壊を避けられない部分は発掘調査を行うことになりました。
2 眠りからさめた「最古の王墓」
ベールを脱いだ遺跡群
吉武遺跡群は、発掘がすすむにつれ、内容がとても豊富な旧石器時代から江戸時代にいたる複合遺跡であることが分かってきました。連日夜間にまでおよぶ調査が続けられました。
「最古の王墓」大発見
昭和60(1985)年、高木地区の調査で、弥生時代の大型の甕棺墓・木棺墓から青銅製武器やアクセサリー(装身具)が続々と出土しました。なかでも三号木棺墓からは、鏡・武器・玉の3点が同時に出土する大発見がありました。新聞やテレビで「最古の王墓」「早良王墓」として報道されると、連日大勢の見学者が訪れました。その後も、弥生時代最大級の「大型建物」や大規模甕棺墓群「甕棺ロード」なども発見され、国内有数の弥生時代遺跡として吉武高木遺跡は知られることになりました。 高木地区と大石地区の遺跡の内容はとくに重要であり、国民共有の財産として後世に伝える必要があるという考えから、地域の方々の絶大な協力を得て、その一部を破壊せずに保存することができました。また、やむをえず失われる部分については、詳細な記録を残す作業が昭和63(1988)年度まで引き続きすすめられました。
3 吉武高木遺跡のこれから
「国指定史跡」として保存された吉武高木遺跡
吉武高木遺跡は平成5(1993)年10月4日に国が「史跡」として指定し、国民共有の財産として守り続けることを決めました。これを受けて福岡市は、史跡地の公有化や調査結果の整理分析など、歴史公園を整備するための準備に取りかかりました。
市民が育てる「やよいの風公園」
平成24(2012)年には「弥生時代の国の成立と展開」をテーマとした史跡整備がはじまり、史跡公園の愛称を募集して「やよいの風公園」と名付けられました。平成28(2016)年度までの早期整備では、吉武高木遺跡の歴史的価値と魅力を体感してもらうために「大型建物跡」や「最古の王墓」の一部と「甕棺ロード」の展示・解説をおこないます。