遺跡のみどころ

吉武高木遺跡を代表する3つの重要遺構と、吉武遺跡群の変遷について紹介します。

  1. 重要遺構1特定集団墓
    1. 1最古の王墓発見か?
    2. 2弥生人の生と死
    3. 3続々と出土する豪華な副葬品
    4. 4有力者たちが眠る場所特定集団墓
    5. 5国の出現と東アジア世界
    6. 6シカに見る弥生人の精神世界
  2. 重要遺構2甕棺墓群「甕棺ロード」
    1. 1甕棺ロードへようこそ
    2. 2甕棺ロードVS特定集団墓
    3. 3弥生のタイムカプセル「甕棺」
    4. 4甕棺の移り変わり
  3. 重要遺構3大型建物
    1. 1謎の大型建物あらわる
    2. 2大型建物の復元
  4. 吉武遺跡群の発展と衰退

吉武遺跡群の発展と衰退

1.吉武遺跡群とは

国史跡吉武高木遺跡の周辺には、旧石器時代(約2万年前)から江戸時代(約200年前)にいたる数々の遺跡が営まれています。この地は古くから水田・農地として利用されていましたが、ときおり土器や石器が採集できたことから、遺跡があるのでは?と考えられていました。そこで、福岡市は昭和43( 1968)年に遺跡分布調査を行って遺跡の存在を確認し、「飯盛弥生遺跡」「樋渡遺跡」「高木甕棺遺跡」などの遺跡を登録しました。

現在、高木地区・大石地区・樋渡地区に広がるこれらの遺跡を統合し、まとめて「吉武遺跡群」と呼んでいます。吉武遺跡群は、北の日向川と南の竜谷川にはさまれた扇状地上に広がっており、その面積は40ヘクタール(400,000㎡)にもおよびます。

2.弥生時代の吉武遺跡群

弥生時代における吉武遺跡群の変遷について、ここでは発展期・展開期・衰退期の3期に分け、みていくことにしましょう。

弥生時代の吉武遺跡群
発展期

発展期

中期はじめ(約2,200年前ごろ)

前期のおわりに「北のむら」、続く中期のはじめに「南のむら」と、集落が相次いで出現しています。そして、高木地区では他地域にさきがけて豊富な副葬品をおさめた「特定集団墓」が、大石地区では青銅製武器をおさめた甕棺墓群が、それぞれつくられました。同時に周辺においても、小規模な甕棺墓群が、形成されはじめます。

発展期

展開期

中期中ごろ~おわり(約2,100~2,000年前ごろ)

高木地区では特定集団墓の形成が終わり、「大型建物」が出現します。大石地区周辺では甕棺墓群形成が最盛期をむかえ、「甕棺ロード」となります。樋渡地区では墳丘墓がつくられ、中には中国鏡や鉄製武器を副葬した甕棺墓もありました。同じころ、後に「伊都国」「奴国」と記される地域では、「王墓」と呼ばれる特別な墓があらわれます。

発展期
後期はじめ(約1,900年前ごろ)

衰退期

後期はじめ(約1,900年前ごろ)

高木地区の大型建物は姿を消し、樋渡地区の墳丘墓や大石地区の甕棺ロードの形成も終わります。「北・南のむら」は規模が小さくなり、かつての隆盛は影をひそめていきます。

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