1 甕棺ロードへようこそ大型建物は何のために
作られたのかな~?
甕棺ロードとは
特定集団墓の北側には谷川が流れており、その先には北東方向にのびる、なだらかな丘陵状の高まりがあります。このあたりは大石地区と呼ばれ、弥生時代前期の終わりから中期後半までの200年の間に、甕棺墓を中心とした、たくさんの墓がつくられた場所です。ここから南西に向かって、幅30~40m、長さ約500mにわたって、甕棺墓群が存在しており、その総数は2,000基にも及ぶと推定されます。
甕棺墓が道のように続いていることから、「甕棺ロード」とよばれるようになりました。


大石地区の全容とその特徴
吉武遺跡群では、これまで約1,300基の墓が調査され、全体では3,000基を超えると推定されています。大石地区では、202基の甕棺墓、8基の木棺墓、土坑基12基が調査され、この内甕棺墓8基、木棺墓2基から、銅剣5・銅戈4・銅矛2が出土しました。
前期末・金海式 | 甕棺墓49基。青銅器副葬率は1割以上。 |
中期初頭・城ノ越式 | 甕棺墓13基。木棺墓4基、木棺墓2基に青銅器副葬で1割ほど。 |
中期前半・汲田式 | 甕棺墓22基。青銅器副葬は53号のみ。 |
中期中頃・須玖式 | 甕棺墓47基。 |
中期後半・立岩式 | 甕棺墓41基。 |
大石地区の墓では、高木地区の特定集団墓とほぼ同時期に、青銅器などの副葬がおこなわれています。しかし、特定集団墓と比較して、以下の違いがあります。
- ① 青銅器の数に大差はないが、鏡が無いなどその種類に違いがある。
- ② 玉類が極端に少ない。
- ③ 副葬された青銅武器には、柄や鞘がついたものがあり(5号木棺墓、45号甕棺墓)、実用的な要素が強い。
- ④ 4基の甕棺墓(10・53・60・81号)から石剣の切先や磨製石鏃が出土しており、被葬者は戦闘により死傷した可能性がある。
このような特徴から、大石地区の被葬者は、戦闘に従事していた人々であると考える研究者も多く、当時の新聞報道では「弥生戦士の墓」という見出しがつけられました。