遺跡のみどころ

吉武高木遺跡を代表する3つの重要遺構と、吉武遺跡群の変遷について紹介します。

  1. 重要遺構1特定集団墓
    1. 1最古の王墓発見か?
    2. 2弥生人の生と死
    3. 3続々と出土する豪華な副葬品
    4. 4有力者たちが眠る場所特定集団墓
    5. 5国の出現と東アジア世界
    6. 6シカに見る弥生人の精神世界
  2. 重要遺構2甕棺墓群「甕棺ロード」
    1. 1甕棺ロードへようこそ
    2. 2甕棺ロードVS特定集団墓
    3. 3弥生のタイムカプセル「甕棺」
    4. 4甕棺の移り変わり
  3. 重要遺構3大型建物
    1. 1謎の大型建物あらわる
    2. 2大型建物の復元
  4. 吉武遺跡群の発展と衰退
特定集団墓

重要遺構1特定集団墓

他地域にさきがけて出現した有力者たちの墓で、中でも優れた副葬品を持つ3号木棺墓は、「最古の王墓」と呼ばれています。

3.続々と出土する豪華な副葬品どのような人が
持っていたのだろうね

入手困難な貴重品

入手困難な貴重品
特定集団墓から出土した副葬品

特定集団墓では、青銅製武器11(銅剣9・銅戈1・銅矛1)・鏡(多鈕細文鏡)1・銅釧2・ヒスイ製勾玉4・碧玉製管玉466・ガラス小玉1といった青銅器やアクセサリー(装身具)が副葬されていました。

青銅器は朝鮮半島に由来するもので、アクセサリーのうち、勾玉として使用されたヒスイ(硬玉)は、九州から遠く離れた新潟県などの糸魚川産であることが判明しています。このように、特定集団墓の副葬品には、遠い地よりもたらされた、入手の困難な品々が含まれていることがわかります。

青銅器とは?

青銅とは、銅・錫・鉛の合金のことです。その青銅を使った製品である青銅器は、朝鮮半島、中国東北部の遼寧省地域、さらにはアジア大陸内陸部の草原地帯へと源流をさかのぼります。弥生時代前期末には、朝鮮半島における青銅器文化を代表する銅剣・銅矛・銅戈、多鈕細文鏡といった青銅器が、そろって北部九州へもたらされます。これとさほど変わらない時期には、石・土製鋳型やるつぼなども見つかっており、国内生産もはじまったようです。

吉武高木遺跡では、青銅器は死者とともに埋葬される副葬品として出土しています。しかし、後の時代になると、墓の中ではなく、青銅器だけが埋められた状態で発見されます。青銅器は、時代やそれを手にした人々ごとに、意味づけや使い方が異なっていたようです。

青銅器とは?

特定集団墓の優位性

岸田遺跡から出土した副葬品
岸田遺跡から出土した副葬品

これまで、弥生時代の墓は日本の各地で数多く発見・調査されていますが、中から副葬品が発見されることは、ほとんどありません。大量の副葬品がまとまって出土した吉武高木遺跡の特定集団墓は、きわめてまれな存在であることがわかります。

ところで、吉武高木遺跡の周辺において、特定集団墓と同じ時期に青銅器の副葬品を持つ墓は、野方久保遺跡(銅剣2)、飯倉唐木遺跡(銅剣1)、有田遺跡(銅戈1)、岸田遺跡(銅剣5・銅矛3)、東入部遺跡(銅剣2・銅釧1)などがあります。青銅器の数をみれば、特定集団墓や甕棺ロードを含めた、吉武高木遺跡の副葬品(銅剣14・銅矛3・銅戈5・鏡1)は、他よりも卓越していることが分かります。

これは各集団間の格差、つまり他地域に対する吉武高木遺跡の優位性を示しているのです。

ページトップ