遺跡のみどころ

吉武高木遺跡を代表する3つの重要遺構と、吉武遺跡群の変遷について紹介します。

  1. 重要遺構1特定集団墓
    1. 1最古の王墓発見か?
    2. 2弥生人の生と死
    3. 3続々と出土する豪華な副葬品
    4. 4有力者たちが眠る場所特定集団墓
    5. 5国の出現と東アジア世界
    6. 6シカに見る弥生人の精神世界
  2. 重要遺構2甕棺墓群「甕棺ロード」
    1. 1甕棺ロードへようこそ
    2. 2甕棺ロードVS特定集団墓
    3. 3弥生のタイムカプセル「甕棺」
    4. 4甕棺の移り変わり
  3. 重要遺構3大型建物
    1. 1謎の大型建物あらわる
    2. 2大型建物の復元
  4. 吉武遺跡群の発展と衰退
特定集団墓

重要遺構1特定集団墓

他地域にさきがけて出現した有力者たちの墓で、中でも優れた副葬品を持つ3号木棺墓は、「最古の王墓」と呼ばれています。

5.国の出現と東アジア世界吉武高木の有力集団は
どうして「国」を作ることが
できたのだろう?

東アジア世界の中で

東アジア世界の中で

北部九州は、古来より中国や朝鮮などの文化を受け入れる窓口でした。福岡市内における板付遺跡やこの吉武高木遺跡などをみれば、中でも朝鮮半島からもたらされた文化(無文土器文化・青銅器文化)の影響が色濃く表れていることが分かります。しかし、その背後には東アジア世界に多大な影響を与えた中国の存在があります。つまり、日本における弥生文化の成立とは、中国文化の東進を遠因とするもので、中国を核とする東アジア社会の一員となったあかしであるということもできるでしょう。

このように、大陸よりもたらされたさまざまな文物や技術は、日本の文化を一変させ、さらに社会を複雑にしていきます。そして、人々はより強力なリーダーの存在を求めるようになりました。

消えた?「早良国」

そこで誕生したのが、吉武高木遺跡の特定集団墓、そして「最古の王墓」3号木棺墓です。「国」の原形は、古くから「早良」と呼ばれるこの地、早良平野にできあがりました。

『漢書地理志』の「分かれて百余国」、『魏志倭人伝』の「伊都国」(糸島市周辺)・「奴国」(春日・福岡市周辺)のように、中国の歴史書では、中期後半以降の弥生社会における地域的なまとまりは「国」と記述されています。弥生時代中期の初頭、吉武高木遺跡は早良平野の中核となる有力集団であったと考えられますが、この中で「早良国」という記述はみられません。国や王墓の萌芽がありながら、早良平野では結果的に伊都国や奴国のような「国」と呼ばれるほどの広範な地域的統合を形成できなかったようです。

消えた?「早良国」

樋渡墳丘墓

樋渡古墳(墳丘墓)
樋渡古墳(墳丘墓)

「伊都国」や「奴国」に王が出現した弥生時代中期後半(約2,100~2,000前)、吉武遺跡群では樋渡地区に墳丘墓がありました。墳丘墓とは、土盛りを持った墓のことです。墳丘は南北約26m、東西約17mの大きさで、発掘調査により甕棺墓など32基の墓が発見されました。甕棺墓からは、青銅製武器(銅剣)に加え、鉄製武器や中国製の鏡が出土しています。

樋渡墳丘墓は優れた副葬品を持つ、吉武高木遺跡の特定集団墓に続く有力者たちの墓であると考えることができますが、それでも、鏡などの大量の副葬品を中におさめた奴国・伊都国の王墓とは大きな格差が存在しています。なお、吉武高木遺跡の大型建物も同じ時期の所産です。

ところで、樋渡墳丘墓最大の特徴は、5世紀前半の前方後円墳(帆立貝式古墳)である樋渡古墳(吉武S-1号墳)の下から発見されたことです。つまり古墳は、弥生時代の墳丘墓を利用し、さらに土を盛り上げて築かれていたことが分かりました。

古墳の下から出てきた甕棺
古墳の下から出てきた甕棺
表 樋渡墳丘墓の副葬品
遺構名 副葬品 時期
5号甕棺墓 鉄剣・鉄鏃 弥生時代中期後半
61号甕棺墓 鉄剣 弥生時代中期中ごろ
62号甕棺墓 鏡(重圏文星雲鏡)・鉄刀 弥生時代中期後半
64号甕棺墓 刀子 弥生時代中期後半
75号甕棺墓 銅剣・青銅製把頭飾 弥生時代中期中ごろ
77号甕棺墓 銅剣 弥生時代中期中ごろ
1号木棺墓 鉄剣・管玉・ガラス玉・水晶製算盤玉 弥生時代後期
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