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9.蒙古襲来-生の松原

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歴史の教科書に必ず登場する『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』に描かれた元寇防塁が福岡市に現存します。それが生の松原の元寇防塁です。元寇の船が大挙して押し寄せた博多湾と元寇防塁を巡るまち歩きをご紹介します。『蒙古襲来絵詞』の絵図は、現地にもサインとして展示されています。絵図と現地を是非見比べてください。美しい博多湾の風景を眺めるだけでも新たな発見があるかもしれません。

[1] 壱岐神社

・壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)を祀る神社です。
・『日本書紀』によれば、壱岐直真根子は、反乱の罪を着せられた武内宿称(大和朝廷の初期に活躍したという伝承上の人物で大臣等をつとめる)を助けるため、身代わりとなって亡くなった人物と伝えられています。やがて無実であることがわかりましたが、自分の命を犠牲にしてまで武内宿称に尽くしたことから、ここに祭神としてまつられたと言われています。

[2] 逆松の碑

・神功皇后が松を逆さに植えながら、『願いが叶うなら生きよ!』と唱え、その松が無事に生きたという伝説の木を示しています。その後松原へと種子を増やすことになり、そんなことから、松原の名は生の松原となったと伝えられています。

[3] 元寇防塁(生の松原地区)
 文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。  長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、白砂と松原の境を元寇防塁が縫うように走る。ここを生の松原地区元寇防塁と呼ぶ。昭和43年発掘調査が行われ、海への傾斜面に幅...
[4] 元寇防塁(向浜地区)
 文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。  向浜地区は、大正10年(1921)に内務省の考査官が現地視察し、石塁を確認したとされているが、詳細は不明である。その後昭和30年(1955)の台風によって姪浜一帯の海浜が浸...
[5] 小戸大明神宮

・伝説では伊邪那岐(いざなぎ)の神の「みそぎ祓(ばらい)」を行ったところで、天照大神、志賀三神、住吉三神が出現したという由緒の地とされています。
・享保10 年(1725)6 代藩主黒田継高(つぎたか)が社殿を建立し、伊勢神宮の古例にならい、20 年ごとに新旧両殿交互に改築遷座が行われていました。
・また、神功皇后の休憩安産石の由緒により、安産祈願またけいれんの病に霊験があるとされています。また附近に皇后の朝鮮出兵にちなむ「お膳立て」の磯があり、海中に配膳の形をした岩盤24 個があることも特徴です。