文化財を見に行こう

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西公園の地は、江戸時代には荒津山と呼ばれた景勝地でしたが、明治時代に公園として整備されました。また、大濠公園は昭和の初め、福岡城西側の大堀を埋め立て作られた県営公園です。どちらも都心近くの憩いの場として、また健康作りの場として多くの市民に親しまれていますが、文化遺産も数多く残されています。やや長距離でアップダウンもありますが、ゆっくり、自分のペースでまち歩きを楽しんでください。

時間…
約4時間
距離…
7.5km
[1] 黒田家浜町別邸跡
 明治維新ののち、福岡城から移した武具櫓や伝潮見櫓などを構えた三千坪におよぶ広大な黒田家の屋敷跡です。大正7年に落成しましたが、空襲で焼失し、残った伝潮見櫓は再び福岡城に移築されました。

約8分

[2] 浄念寺
 浄土宗の寺院です。慶長年間、僧・舜道が土地を初代藩主黒田長政から与えられ寺を開きました。
 境内には舜道の師である空誉上人の堂があり、その前には「空誉伝説」の説明板が設置されています。また福岡藩で多くの餓死者を出したといわれる享保の大飢饉の供養碑がたてられています。

約3分

[3] 円応寺
 浄土宗の寺院です。慶長7(1602)年に黒田如水夫人照福院がこの寺を創建し、僧真誉見道によって開かれました。寛永4(1627)年照福院が亡くなり、この寺に葬られました。戦後、墓は崇福寺に移され、現在は供養塔が立っています。
 境内には黒田節で知られる二川相近、六代藩主黒田継高の息女厚(阿津)姫、玄洋社の頭山満などの墓があります。

約3分

[4] 小春大明神
 大名町飯田屋敷の隣にあった田代家で、処罰した女中の霊に悩まされた当主が小春大明神としてこれを祀ったと伝えられています。

約5分

[5] 貝原益軒屋敷跡
 貝原益軒は、『養生訓』などで全国的に有名な福岡藩の儒学者、博物学者です。二代藩主黒田忠之に仕えましたが訳あって浪人となり、三代藩主光之に見いだされ再び仕官しました。40歳のとき四代藩主綱政からここ荒津東浜に屋敷を与えられ、生涯の住まいとなりました。
 正德4(1714)年85歳で亡くなるまで『黒田家譜』『筑前国続風土記』など多数の書を著しました。

約10分

[6] 西公園
 江戸時代の儒学者貝原益軒が「此の山にのぼりて四方をかえり見たる景色、いつも見るたびに目を驚かし、時々につけて、人の心をうごかせり」とほめたたえた荒戸山に、明治33年設置された県営公園です。
 面積は約17万㎡で、桜の名所として知られています。

約8分

[7] 万葉歌碑(西公園の碑)
 進藤一馬元福岡市長が書いた「西公園の碑」の裏に、「草枕旅行く君を荒津まで送りそ来ぬる飽き足らねこそ」の一首を刻んでいます。

約6分

[8] 大濠公園
 初代藩主黒田長政は福岡城を築くとき、荒戸山の麓の大きな入江を整備し、福岡城の西の堀としました。
 昭和2年に開催された東亜大勧業博覧会の会場として整備され、昭和4年大濠公園として完成しました。日比谷公園の設計などで知られる東京帝国大学の本多静六博士らが、中国浙江省杭州市にある西湖をモデルに設計したといわれています。

約10分

[9] 福岡市美術館
 昭和54年、近現代美術と古美術を常設する美術館として開館しました。如水以来の黒田家資料を収蔵するほか、黒田家菩提寺のひとつ東光院から寄贈された重要文化財の仏像を常時展示しています。