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11. 蒙古襲来-西新

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 元寇防塁と元軍が陣を構えた祖原山を中心に副都心西新を巡るまち歩きをご紹介します。西新は、本市の副都心に成長したところです。ルートの中には商店街も含まれています。博物館から西新商店街も巡るまち歩きをお楽しみください。思いがけない新たな発見もあるかもしれません。

[1] 福岡市博物館
 シーサイドももちの中央、福岡タワーを背にして建つ。平成元年のアジア太平洋博覧会ではテーマ館にもなったハーフミラー貼りの建物は、ガラスの宝石箱のイメージをもつ。国宝「金印」をはじめ、海外との交流を中心に展示を行い、奴国から現代までの福岡の歴史とくらしがわかる常設展示室の他、4部屋からなる企画展示室と特別展示室がある。国宝の金印、太刀「名物日光一...
[2] 元寇防塁(西新地区)
 文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。  元寇防塁は西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上...
[3] 元寇防塁(百道地区)
 文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。  元寇防塁は西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸...
[4] 藤崎遺跡
 藤崎遺跡は、砂丘上に営まれた墳墓・集落遺跡である。これまで砂丘頂部を中心に弥生時代前期~中期の甕棺、石棺、木棺、古墳時代前期の方形周溝墓などが確認・調査されている。 明治45年(1912)、箱式石棺から三角縁盤龍鏡が出土して注目をあび、大正時代には弥生時代初期の土器群が石棺墓などの副葬品として発見された。昭和52年(1977)以後、地下鉄工事などに伴い発...
[5] 麁原元寇古戦場跡
 文永11年(1274)10月、高麗軍を主力とする元軍は今津から百道原に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂の一帯は戦闘の場と化した。少弐景資、肥後の菊池武房、竹崎季長らがこれを迎え討ち、勝敗が決しないまま元軍は船に引き上げた(文永の役)。  この時激戦の場のひとつとなったのが百道浜の後背地にある麁原山(標高33m)である。360度の眺望がきく山頂の北側下に記念碑が建つ。
[6] 祖原山本陣跡

・文永の役の時、元軍が博多湾に上陸して本陣を構えた跡です。現在は祖原公園になっています。