文化財を見に行こう

5.室見川東岸の遺跡

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福岡市の西南部に位置し、博多湾に向かって扇形に展開する早良平野は、昭和40年代以降の道路や宅地の開発に伴い、埋蔵文化財の発掘調査が数多く行なわれ、次々と重要な遺跡が発見されています。
この周遊コースは、室見川東岸地域でこれまで発掘調査された遺跡をはじめ、戦国時代の古城跡、名勝に指定されている庭園、国宝の梵鐘、中世の石塔など各種の文化財を巡る広域的なコースです。

[1] 有田遺跡群
 有田遺跡群は、早良区有田・小田部・南庄地区にかけて広がる旧石器時代から江戸時代にわたる大遺跡である。1966年の区画整理事業に伴う発掘調査以来、これまで270ヶ所を超える地点を調査している。  縄文時代では中期から後期(およそ5000年前から3000年前)の定住生活を示す、環状に配置された貯蔵穴群がみつかっている。   弥生時代には早良平野で最大級の集落...
[2] 四箇遺跡群
 四箇田団地や四箇田小学校建設前の発掘調査で、縄文時代・弥生時代・古墳時代の遺跡がみつかった。 遺跡は縄文時代前期(約8000年から5000年前)からはじまっている。早良南地域交流センター横の四箇田公園内では、縄文時代後期(約3500年前)の湿地がみつかり、泥炭層から、土器や石器、漆器のほか、食物にしたとみられる動物の骨や植物の種子(ドングリ、クルミ、ヒョウ...
[3] 妙福寺庭園
 この庭園は、寺の西南側、書院の前にある。書院の前を流れる自然の小川(金屑川)を利用して、その砂を掘り上げ、起伏の豊かな築山を作り、配石、石組は極めて豪快にして簡潔、しかも古格の高い情越には見あきないものがある。そして、背景のモツコク、ツバキ等の広葉樹林および竹林と一体となったその景色は、まことに見事である。  弓なりに流れる自然の金屑川を刀に...
[4] 東入部遺跡群
 早良平野の基部にあたる入部一帯は、昭和62年からの圃場整備に伴う発掘調査の結果、縄文時代から中世にかけての一大複合遺跡であることが分かった。 東入部遺跡群はこの南側を占め、縄文時代包含層、弥生時代集落・墓地、古墳時代集落・墓地(古墳)、古代の官衙的建物群・集落、中世の集落・墓地などの遺構がほぼ全域で確認された。 このうち広橋病院北側で発見され...
[5] 荒平城跡
 早良平野を貫流する室見川(早良川)上・中流域の東西丘陵や山頂には、荒平城をはじめ飯盛城、都地城、曲淵城など平野の要所を占める中世山城が知られている。  荒平城は油山の一支山である荒平山(標高392m)にあり、豊後の戦国大名大友氏の配下にあった小田部民部大輔鎮通が、天文22年~天正7年(1553~1579)の間、居城とした。山頂を本丸(方30間)とし、その下の...
[6] 梵鐘
 寺で使う釣り鐘を、一般に梵鐘と呼ぶ。  西光寺の梵鐘は、承和六年(839)の銘文を鋳出したもので、わが国の紀年銘鐘としては5番目に古く、和鐘の研究上、貴重な基準的作品として注目される。  銘文によれば、この鐘は承和6年(839)に、鴨部氏によって伯耆国(鳥取県)金石寺の鐘として作られたことがわかる。金石寺については明らかでないが、鴨部氏の本拠であっ...
[7] 曲渕水源地水道施設(曲渕ダム)
 大正5年(1916)に着工し、12年(1923)に竣工した福岡市初の上水専用ダム。重力式コンクリート造で、外面は御影石の練石積みとする。  昭和6年(1931)から9年(1934)には、早くも拡張工事がおこなわれ、有効貯水量はほぼ倍増した。また、この際におこなわれた漏水防止工事は、セメントガンによる施工として、国内初の試みであった。  堰堤高45.0m、堤頂長161...
[8] 曲渕城跡
 曲淵は戦国時代から見える地名である。背振山東門寺の寺領で、後に大内氏に支配された。「筑前国続風土記」によれば戦国末期の元亀・天正(1570~1592)の頃、曲淵河内守氏(房)助・信助父子の居城があり、高祖の原田氏に属していたという。  曲淵小学校東側の城山と呼ばれる一帯がそれにあたる。現在主郭部には山神社が鎮座し、南側尾根には、大規模な掘り切りが見ら...
[9] 曲淵五重石塔
 本塔は室町時代の造立と推定される市内でも数少ない層塔である。昭和32年、曲淵小学校前の畑畔にあったものを校庭に移建したものだという。 黄褐色の粗質砂岩製で、基礎から相輪上端までの高さは、275cmにおよぶ。地覆、基礎、塔身のほか、上層は軸部を造り出した笠石を重ね、相輪を頂く繁層式であるが、第3層の軸石だけは、第2層笠石の上部を削って別石を嵌めた後...