文化財を見に行こう

6.能古島歴史ロマン散歩

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博多湾内に浮かぶ西区能古島では、これまでの調査で弥生時代の遺跡や古墳群が見つかっており、奈良時代の『万葉集』には遣新羅使や志賀白水郎の歌として能古島の名が登場します。平安時代には牛牧が置かれ、1019年の刀伊の入冦の時には大きな被害を受けました。近世には廻船の基地として栄え、また福岡藩の鹿狩りの猟場でした。
周遊コースは歴史とロマンに浸り、島の自然を楽しむ1日コースです。島へは姪浜港からの市営渡船で約10分です。

[1] 能古博物館
 「学は民生にあり」とした亀井南冥・昭陽父子の亀井学関係資料をはじめ、能古島出身の画家多々羅義雄(1894~1968)や郷土の画家の作品、筑前五ヵ浦(残ノ島・今津・浜崎・宮浦・唐泊)の一つとして全国を廻った往時の廻船基地をしのばせる大型廻船模型、先の大戦後、大陸から官民139万人の人々が博多港に帰還した「引き揚げ」に関する資料、市指定天然記念物である長垂の...
[2] 能古焼古窯跡
 明和~天明年間(1764~1787)の短い間に操業された藩窯で、昭和63年に発掘調査された。現在、博物館敷地内に保存されている。  天井部は失われているが、焚口部と焼成室7室からなる8室構造の連房式登窯で、全長22m、焚口から窯尻までの比高差は5.2mをはかる。壁体内には磚や窯道具が塗り込められ、修復が繰り返されたことがうかがわれる。  出土量の多い染付皿の...
[3] 万葉歌碑(能許)
 能古島の南端、渡船場の山手に能古博物館がある。江戸時代に御用窯であった能古窯跡があり、そこを上りつめると永福寺箱式石棺墓と隣接して万葉歌碑が立てられている。  天平八年(736)、新羅を目指した遣新羅使一行は、筑紫館(後の鴻臚館)を出発し、韓亭(別称能古の亭、現在の唐泊)に至り風待ちをした。その時に詠まれた歌を碑にしたものである。  「風吹けば...
[4] 白鬚神社
 祭神は神功皇后(じんぐうこうごう)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、三筒男命(みつつおのみこと)など。由緒は不詳だが、奈良時代の創建といい、慶長年間(1596~1615)には現在地に祭られていた。島の産土神である。  例祭は10月9日と11月28日にあり、前者を「おくんち」、後者を「おまつり」と呼ぶ。「おくんち」には古式をとどめた宮座がある。  「おくんち...
[5] 北浦城跡
 能古島南部の東側の海岸に面して突出する丘陵先端にあり、『筑前国続風土記拾遺』によれば「城崎古城」とされ、藤原純友の家臣伊賀寿太郎という人物が築造したとある。また『早良郡志』では山上憶良が築造したともいう。  博多湾の内側を見渡せる自然の要害で、調査では幅4.8m、深さ4.5mの堀が23mの長さで確認されている。  この城の築造は平安時代の可能性もあ...
[6] 早田古墳群
 能古島中央南側の丘陵部に並んで位置する横穴式石室を埋葬主体部とする2基の円墳である。墳径は7~9mだが、墳丘はほとんど残らない。2号墳の石室がほぼ完存し、長さ6.2mをはかる。ともに7世紀前後の築造とされる。  島内では他に鬼塚古墳が知られていたが、現在はその姿をとどめない。
[7] 鹿垣
 江戸時代の後期、能古島は黒田藩の鹿の狩猟場であった。ところが田畑への鹿の被害が著しかったため、東の北浦から西の白鳥までの東西約2kmにわたり島を南北に分断する石垣を築いた。これが現在も残る鹿垣で、天保7年(1836)に完成したという。  その構造は高さ2mの土盛りの北側に30~50cm大の石を積み、その前面に幅3mの溝を掘ったもので、これで鹿が島の南部に出るの...
[8] 万葉歌碑(也良の崎)
 「沖つ鳥 鴨とふ小舟の 還り来ば 也良の崎守 早く告げこそ」(巻16・3866)  海で遭難し帰らぬ人となった志賀(しか)の荒雄(あらお)にちなんで、筑前守山上憶良が詠んだ歌である。「鴨」は、荒雄が乗り込んで遭難した船の名前である。「崎守」は、筑紫に派遣されて国防に当たった防人(さきもり)のこと。防人の配属地は具体的には不明であり、それを推測させる貴...